C101について

 自分の所属するサークルから、冬コミに向けて”純愛”あるいは”愛”をテーマに文章等を寄稿するよう要請があった。中々扱いが難しいテーマである。そもそも定義があやふやで概念の存在すら明らかではない”純愛”という語を、ひとつ視点をしっかと据えて論述するのは並大抵のことではない。前者の困難に関して言えば、これは何とかならないこともない。”純愛”の正体が明らかでないからこそサークルを作ってまで述べる価値がある訳で、存在の未確認な概念の正体を状況証拠などから手探りで解き明かしていくのは、惑星の公転軌道のズレからその外部にある未知の惑星を探すような、如何ともしがたい悦楽があるように思う。発見の手法もこれまでの偉大な学者たちの手法・論法を踏襲すれば何という事はない。
 しかし、後者の視点の設定という問題は難儀である。述べるという行為は、その最小単位たる文というレベルですら、事物(一般に名詞で表される)が他の事物との間や何らかの状況下で営む関係(一般に動詞で表される)を表現しようとする。文章を書く以上、語り手と語られる対象との関係性には注意を払わねばならない。学術的な文章であれば、研究対象の再現性が高いため、関係性の記述には比較的無頓着でいられよう。則ち、語り手が誰であろうと1+1は2であるということだ。だが、自分は”純愛”、そもそも”愛”について何か新しい概念を発明しつつ歴史上のあらゆる”愛”的な現象を論ずるという学者的な文章を今書く気にはなれない。それが多大な労力を要する一方で車輪の再発明にしかならず、誰かの役に立つとも思えないからだ。かくして自分は”愛”なる概念について、自分との関係性を下敷きにした文脈でのみそれを述べることしか出来なくなった。
 だがそれはそれで問題である。”愛”という概念はその身近さと理解が容易そうな側面(これは自称言語学好きが多いのと同じ要因である)、更にはその探求の姿勢が詩人を気取るのに打ってつけだったこともあり、故に各々の人間が各々の文脈で解釈を加え、各々の解釈を自身の信条としてしまっている。同様の現象は”ロック”や”オタク”といった言葉への解釈でもしばしば起きうる。これらの語は自己信条化が進みきった結果、公の場でその定義を述べるだけで血で血を洗うような喧嘩を招く言葉となってしまった(因みに自分の大好きなバンド、デュフフ★こんぱにおんは”愛””ロック””オタク”全ての要素をアイデンティティに組み込んでいたりする。そのためこのバンドの楽曲の解釈も一時期寄稿のアイデアとしてあった)。特に前述のサークルは所謂オタサー的な側面もあり、構成員も会誌を読んでくれるような方々もそのような有象無象の”愛”の記述に対して食傷でさえあろう。したがってエッセイとして所感を記述することさえも厭わしく感じられてしまった。
 こうなるともう書くことが無い。しかし創設者はじめサークルの方々には拾ってもらったり種々の相談に乗ってもらったりと恩義があり、かつここ最近までサークルの活動にコミット出来ずにいた負い目もある。何かひとつ実のなるものを寄稿したい。愛、愛、お猿さん、バナナ、甘いと種が出来ない、種が出来ると苦い、苦い種、精液、どろどろ、A.T.フィールド。出来の悪い自由連想法に従ってイメージを広げていく。こういった連想を繰り広げることのメリットは、最後には自分の現状の最大の関心事を示唆するワードしか出てこなくなることである。5分程で結論が出た。自分には今、好きな人がいる。その人がいる空間は居心地がいい。自分もその人に居心地のよい空間を提供したい。では空間の演出にはどんな手段があるか。最も自分にとって現実的な手段は音楽である。書きたいものは決まった。
 という訳で、C101の続報をお待ちいただきたい。