すみだ水族館へ

 文章をブログという形式で書くのは然程簡単ではないようだ。そもそも文章を書くこと自体、コミュニケーションのいち形態である以上様々な困難が付きまとう。そこにブログという形式が加わることで、読み手が不特定多数になり、読者の想定という問題が加わる。これはTwitterでも同様であるが、そちらでの発話行為tweetの語義通り呟きで済ませられる軽微なものが殆どであり、また他者の発話行為は”流れてくる”ものである。一方でブログとなると文量は140字以下に留まることは稀であり、それだけの文字数というコストを超える発話行為である以上、主張したい内容というものが存在する。また読み手も基本はリンク等から自身の興味に従って読みに来る訳であり、このこちらの主張と読み手の関心とのマッチングが上手く行くかがブログの伸びに関わってくる。実際自分はこのブログを日記的な目的で書いており、閲覧数の伸びは大して気にしてはいない。しかしながら読みに来てくれた人には何か気の利いたものを出したいというのが人情であり、近世以降大衆までに旅行文化の浸透した我が国における、旅人に対する一期一会の精神であろう。自分はこの偉大な伝統(尤も存続しているかは疑わしい)に則り、お目通しいただく皆様にお茶菓子程度には足しになる体験を提供したい。このような理由で読者の方々の共通項を想定する。まず真っ先に思い付く読み手として、今自分のTwitterを監視していると思われるネトストの方が2名おられる(無論、主格尊敬語は皮肉である)。次に昨日の投稿のトラフィックを見るに、自分の知的能力をある程度買ってくれていそうな方々にもご覧いただいていたようだ。これらの人々の公約数的要素として、書き手の自分に(その心象が正であれ負であれ)関心を持っている点が挙げられよう。自分は考えるのを止めた。結局己の心が進むままにそこはかとなく書くのが読み手の求めるものに適うため、それが一番コミュニケーションとして適当な手段となろう。そもそもブログという媒体自体、書き手の自己顕示欲求と読み手の出歯亀的欲求の折衝によって今日まで存続しているメディア(原義通り、中間物)である。自分が為すべきは己が思うままに書き、自己顕示欲求―これはしばしば健全なる精神を蝕みうる好ましからざる欲求である―を精々霧消させてあげるのがよい。

 このような発信の場合に問われる重要な焦点としてネットリテラシー、その内この場合の自分に係る側面としては書き手の倫理観というものがあろう。もしここで自分が仮にユダヤ人のジェノサイドの話などしてしまえば、後々発掘され、例え親方日の丸で行われる国際的イベントの要職に在ったりしようとその立場を失いかねないのである(質の悪いことに、自分は己の中にアイヒマン的な凡庸悪の種を抱えており、故に自己言及の内にうっかりホロコーストを引き合いに出すということは十二分にあり得る)。生憎己の倫理観には蝶の羽程の自信もない。もとより倫理の種たる”善く生きる”という発想が、青年期までの己の体験の中で上手く養われていない。だが、それ故に倫理≒常識≒偏見の体系から比較的自由でいられよう。もし先述のように自分が読み手の方々に何か差し出せるとすれば、規範という柵から上手く抜け出す発想程度かもしれない。それもまた思い上がりか。前置きが長くなった。本題に移ろう。

 知人に誘われ、今週末押上界隈及びすみだ水族館に足を運ぶことが決まった。誘いがあるというのは嬉しいことである。例の好きな子も来る。只それだけで十分心が躍る。

 とはいえ、内実自分は水族館の楽しみ方がよく分かっていない。哀しき哉田舎の水産県に生まれた身、海棲生物に対面して第一に湧くのは捌き方や調理法の検討なのだ。平たく言えば、己はマグロの水槽を一言「美味しそう」で言って丸める野蛮人である。流石にそれは避けたい。無論他の楽しみ方が出来ないわけでもない。海棲生物の生態に目を向け、その生活の構造をヒトや生命全般に当て嵌めて頭を働かしてみたり、或いはその命の儚さ、ことば持たぬ生き物故の一途さに胸を打たれてみたりと(これらも単なる文筆家気取りに過ぎないのかもしれないが)出来ない訳でもない。ただ、今回に限ってはそうおちおちと鑑賞屋を気取っていられない。そう、好きな人が来るからである。

 このブログの読者層を想定してノベルゲームで例えよう。好みのヒロインのルート、その子の普段とは異なった佇まいを見られる初めてのデートシーン。そんな文脈で一体どんな好事家であれば背景に目を向けられるだろうか。同じ空間に意中の人物が居る。その事実こそが最大のコンテンツとなり、プレイヤー(≒主人公)たる自身の意識はヒロインを中心に求心的構造を取りはじめる。これは水族館に限らず何処に行こうと変わらない。非日常体験を求め静かな思索に耽る目的で出掛けるに当たって、このような存在は望ましくない。まあ恋をしているなら心の平静が保てないのは当然なので、せめて共通の体験を経てその体験について語り合える相手、簡単に言えば知的体力の強度が同程度かつ思考のある程度似た相手に恋をするのが知的営為を行う人間にとってはよいだろう。尤もそんな小賢しい条件設定すらなかったかのように魅了されるのが恋の恐ろしいところであるが。

 当日はどんな態度で過ごそうか。展示へと意識が向かないのはもう解りきっている。例の子が水槽を間近で眺めている間、魚の写真でも撮る振りをして後ろ姿でも写真に収めようか。丁度卓上カレンダーが欲しいと思っていた。12枚と言わず370枚くらい撮るのもアリだろう。水族館ではフラッシュが焚けないから閃光で相手に気付かれることはない。水槽の反射も、水槽の内容物を見に来た人間が気にすることはない筈だ。これはいいアイデアだと思う。それに確かすみだには開放型のクラゲの水槽があった。普段からプランクトンを自称する彼女(これは彼女の流されやすさの喩え)である。水槽の上に出っ張った通路から突き落とせば、きっとクラゲ達が群がって綺麗であろう。色素の薄い彼女の肢体は、海月の半透明な体を通り抜けた弱々しいパステルカラーの照明に照らされ、きっと幻想的な光景を見られるに違いない。その時には写真を撮って、先のカレンダーの彼女の誕生日にでも据えよう。きっと彼女も喜ぶはずだ。

 

 と悪質な猟奇趣味のままに文を連ねているが、実のところ先述のネトスト2名のうち片方は、プランクトンたるその子なのである。きっと彼女はここまで読んで自らを対象にした妙にリアリティのある邪悪に恐れ戦き、そしてこの段落を迎えてその邪悪が僕(”自分”ではなく”僕”なのは、”僕”の方が普段彼女に対して用いている二人称である事に因る)の意図的な表現であることに安堵するとともに、今度はこの方向の錯綜したコミュニケーションの複雑さに厄介さを感じ、そして僕の演出した邪悪が一体どんなシニフィエを持つのかに頭を悩ませたり悩ませなかったりするのだろう。ここまで虚構染みたコミュニケーションを展開して尚彼女が僕の言葉の真実性を信じてくれるかは分からないが、僕が彼女に与えたかったのはリアリティの浸蝕による不安とそれに伴う陶酔である。陶酔は愛情の持つ愛する主体へのひとつの作用であり、目先の不安とその不安に対する理性的測量の認識を麻痺させることで一時的に不安を取り除く効能がある。これは”愛する主体”への効能であるから、自分と彼女で言えばこの作用による受益者は自分(”僕”ではなく”自分”)である。つまるところこの文章の執筆及び公開の目的は、普段自分が彼女のおかげで感じている陶酔(≒心強さ)を彼女に身を以て感じさせることにある。その目的の達成のためには敢えて彼女との二者間におけるコミュニケーションを離れ、このような第三者を巻き込む形式を取らねばならなかった。これは中々に純愛的な手段だと思う。今読者の方々(彼女を除く)は、仕組まれた惚気に巻き込まれ3000文字以上も読まされたという悔しさを大なり小なり抱えていよう。このような周囲の人間を巻き込み、時に彼らから否定的な見解を持たれるのは、純愛的な事象に付随してよく見られる現象である。皆様の否定的心象すら”純愛”なる事象の表現に利用しているのだから、本当にこの書き手は質が悪い。しかし、もとより生命体の行為など全て利己的な側面を持つものであり、一見利他行為に思える行為、もそれは”自己”の範囲を時間的ないし空間的に拡張したものに過ぎなかったりするのだ。笑って許してほしい。とはいえ彼女以外の読み手すべてを”周囲”という下位カテゴリに押し込めたとあっては、先に述べた一期一会の精神など有って無いようなものだが……

 やや言葉を連ねすぎた。この頃饒舌なのも恋なる故か。とにもかくにも今週末が楽しみでならない、これに尽きる。ここまで駄文に付き合っていただいた皆様に感謝。