Diary

 ブログという形で文章を書くのは、これで四回目になる。元々は日常の雑感をそそと纏めて日記兼備忘録といった文章にするつもりだったが、生憎この自意識過剰な饒舌体の語り口のために、前三回は少々日記の枠を超えた分量になってしまったと反省している。これでは続くものも続かない。日記というものは、(少なくとも自分にとっては)日々を振り返り慈しむために書くものだ。楽しかったことと嬉しかったことを素地に、悲しかったことや辛かったことも練り込んで簡潔に纏め上げる。そうすれば、後から見返した時に少しは実のある生活を送っていると思えるのかもしれない。

 このところ数日間は投稿が停滞していた。これは先日のすみだ行き以降の漠然とした幸福感のためである。ここ数年間このような、敢えて言葉にするなら"ぽわぽわ"した穏やかな心持になる事はなかった。ここ数年どころか生まれて初めてかもしれない。前例のない体験が故に、この気分("感情"ではなく"気分")について距離を置いて客観的に眺めるという事がなかなか出来ない。今ある心情を客観的に眺めることが出来ないと、他者に言葉を用いて論理的に説明するというのが難しい。言葉を用いた表現が出来ないという事は、文章が書けない。今はこうやって"文章が書けない"ということを文章にして事無きを得ているが、これは一種の禁じ手である。二度目は無い。これからは取り敢えず日記を書くという本懐に立ち返り、起きた事と感じた事を簡単に書くべきか。

 そんなこんなで先程、例の好きな子に文章が書けなくなったという話をした。すると職業柄芸術家が身近な彼女らしく、物書き含む創作者が日常への不満の解消とともにスランプになるのはよくある事、と直ぐに断じてみせた。そして彼女の言うには、もし日常の満足が原因で困っているのなら私がそれを破壊してやる、と。参ったことに、このせいで僕の頭のぽわぽわは更に悪化した。もはや実のある文章など書いていられまい。

 何度も言う通り、自分はこの文章を日記として書いている。そして、先に述べた通り日記には日々の些事とそれに対する心情の簡単な変化を記述すればそれで充分である。であれば今の自分が書き残すべきは一つ、今僕は素敵な出会いのおかげで頭のぽわぽわが取れず、きっとそれは客観的には幸福と呼ばれるべき現象なのだろう、それだけだ。

 最後に、僕が日記を書く切っ掛けになった楽曲を紹介したい。この歌は今僕が自分の結婚式ないし葬式で流したい(流してほしい)最たる歌だ。歌詞は文字として公開されていないものの、此岸の無常を意識しつつ、日記という形で過ごした時間をこの世に留め、日常≒現世への力強い肯定を歌い上げる現代版『白骨の御文』と言ってもいい名文章だ(『白骨の御文』自体は来世利益を願う文章だが、来世を意識して現世を大切に生きるよう促すという点で強い現世志向があると僕は思っている)。ここまで僕の文章を読んでくれた方なら、少なからず思うところのある歌だと思う。是非聴いてみてほしい。

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 それでは、よい夢を。