文体について

 ここ三回の日記は然程面白くない、自分でそう思っている。固より日記など面白く書き立てるものではない。我が国の文学史上には日記文学と呼ばれる一大の作品群があるが、その発祥は当時王朝を支えた貴族が、宮中行事を始めとする職務において、己や子孫が先例を参照できるようにと書き記した記録である。その本来が記録であるからして、日記など本来その日の出来事を箇条書きで書き連ねるだけでよさそうなものだ。だが、実際はそのような記録群が”文学”として呼ばれるだけの価値を獲得している。それは恐らく、日記が単なる帳簿と違って、書き手ないし書き手に近しい他者によって読み返されるものであるという点、則ち記録の存続性と特定の読み手の存在性との二つを書き手に自覚させ、それが書き手の美意識を刺激したという点によるものだろう。或いは、浄土真宗の僧侶が大抵話し上手なのと同じ理屈で、読み手の関心を引くために修辞的な仕掛けを必要としたのかもしれない。何れにせよ、単に記録するだけなら、時系列に沿うなどして出来事を範列するだけで済む筈だ。

 しかしながら、やはりこの日記も、ブログという形式からして読み手(条件付き不特定多数)の視線を意識せざるを得ない。そして他者からの視線が意識された時、そこには装いとしての文体が生まれる。相手との接面を、相手に受け入れてもらうための規範に従って―丁度釣人が竿先の疑似餌を付け替え、動かすように―組織する。そしてその装いの規範という不可視の観念が、装いという可視的な具体物から紐解かれ再度抽象化されたものが文体なのだ。

 ブログに於ける文体として恐らく皆さんの馴染み深いところに、典型的なブログ然とした読みやすさを持つ文体(以下ブログ体)がある。ブログ体の特徴としては、子供に話し掛けるような易しい口語(しばしばネットスラング、それも本来掲示板やSNS等他媒体発祥のものを用いる)、改行の多用、脱マンネリ化・脱無機質化を意図した絵文字・顔文字・AA・写真による文章の装飾等が挙げられ、そこには極端なまでに読みやすさを志向する力の流れが見受けられる。これは恐らく、日記の公開という自己顕示の力学で成り立つブログという文化に於いて、各々の文章が単なる自己顕示と捉えられないよう読み手に過剰な気遣いを見せた産物なのだろう。しかし、このブログ体の過剰な気遣いはしばしば読者を小馬鹿にしているような印象を与えるとともに、書き手の小心さ、馴れ馴れしさ、そして既成の文体に乗っかろうとする書き手の軽薄さを暗に露呈してしまう短所がある。これは、よくSNSで流出するような、中年男性が若い女性に言い寄ろうとするチャットの切り抜きを想起していただければよい。あの場で男性側が用いる文体は、大抵が上に挙げたブログ体の特徴を持つことが容易に想像出来るだろう。

 そのような文体が支配的なブログという土俵で文章を認めるに当たって、自分はこのブログ体の利用という文化に与するのが癪でならなかった。書き綴る中身が己の雑感に過ぎないとは云え、ブログ体で表現するほど無価値ではない、そんな自恃が有った。それに、当初は例の好きな子(この呼称は余りにも誤解を招く、改称すべきか)が目を通してくれることになっていた。そうなれば、変に修辞で文を飾り立てるより、己が頭をかち割ってその脳の皺の深さを直に見せるような、より誠実なやり方で文章を綴りたいと思った。読者の想定が美意識を生む、まさにその瞬間であった。

 そのような経緯で、自分独自の文体、思考の中身をそのまま露呈するような文体を模索することになった。これには案外長くは苦労しなかった。頭の中に浮かぶ口語文を書き並べ、出来たものを読み直し、不自然な点を直す。普段考えている事を書き出したことで己の根暗さを自覚して落ち込んだりしながら、この作業は続いた。その内に、己の文体の特徴を、十二点ほど帰納的に把握することが出来た。現状では、逆にそれらの特徴を演繹的に用いつつ、他に書き様はないか頭を悩ませている。

 妄想的な書きぶりの確立、その試行錯誤の産物が第二回の、すみだ行き前の気持ち悪い文章であった。数いる読み手の中から特定の一人だけを意識し過ぎた事により、最終的には相手の背後に忍び寄るような、猟奇な文章になってしまった。どうも潜在意識下で乱歩の「人間椅子」を真似たようだ。実はこの日の文章、今のところ過去書いた日記の中で最も気に入っていたりする。ただ、その中身の、背中に芋虫の這うような気持ち悪さの為に、読み返す気は中々しない。

 何度かブログを更新してこの妄想体の取り回しにも慣れてきた頃、しかしながら、この書き方の限界に気付いた。日記などの随筆を書く際の基本として、事実・体験の記述と体験の感想の記述の分量比に注意するという初歩的な留意点がある。だが、妄想体で日記を書くと、脳内で起きている思考をそのまま文章に認めるという文体の特性上、感想の記述の量が不自然に膨張し、読み手に、書き手の精神状態についての不安を抱かせ、或いは書き手の自意識過剰なまでの饒舌さに辟易させかねない。そもそも妄想体とは、悪文を連ねることで却って読みやすさを演出する一種の禁じ手、劇薬であり、その副作用も大きいため、日記で使い続けるのは得策でないように思えた。そこで過去三回は、知り合いのブログ(これは非ブログ体で書かれている)の書きぶりを参考に、平板で朴訥な語り口を意識してみたが、どうも納得の行く文章にならない。これもまた試行錯誤が必要か。たかが日記に、という思いも無いではないが、そこは沈むコンコルド、毒喰らわば皿までの精神。

 取り敢えず、妄想的でない、正統で流麗な文章の作法を学ばなくてはならない。そう思い昨日は大学生協の書籍部で、三島由紀夫の小説の内、題に聞き覚えがある何冊かを買って帰った。この段落だけが今回の純然たる日記。