初雪

 自分の歌声を録ることになったため、この頃は普段より多めに煙草を吸い、喉を焼いている。今日も寄稿曲の作業がてら昼間ベランダに出て一本二本、作業を終えて夕方三本四本と吸った。これを書き終えたらまた吸うつもりでいる。関東は台風、一歩部屋の外に出ると雨脚はすこぶる強く、薄暗い空には雷の閃光、一帯にはゴロゴロと不機嫌な音がしていた。もう夏も終わりである。

 そんな季節の変わり目を感じながら一服しようと着火、一番美味しいとされる最初の一吸いを味わい、鼻腔をくぐらせた煙をフッと空に送ったその時、俄かに冬の気配を感じ取った。一瞬だが、強烈だった。それまで夏の終わりを感じる等言っておきながら、何とも妙だと思った。燻る煙草を持ったまま、自分はこの冬の気配の正体について考えることにした。

 ふた吸い目、その答えは直ぐ出た。触覚。煙が鼻腔を通り抜けるときのこそばゆい感覚が、冬の朝の肌を刺す冷たい風の感覚に似ていた。次に嗅覚。これは地元の風土の為もあろうが、冬という季節は野焼き、餅つき、牡蠣小屋と、煙の匂いを嗅ぐ機会が多い。煙の匂い単体ではそれほど特定の季節との結びつきは強くないが、先程の触覚的刺激と組み合わさり、見事に冬の情感を刺激したようだ。思えば、口元から白い煙を吐く行為自体が随分と冬っぽい。触覚、嗅覚、視覚。三つ並べてみて、先程まで不思議に思えていた謎の感触が当然のように思えてきた。

 内心の納得に満足し、ふっと息を吐く。灰が散った。これは、今年の初雪。そういう事にした。馬鹿馬鹿しくて面映くなった。それからは暫く煙草に口を付けなかった。

 その後、まだ黒い燃えカスの塊が右足の親指に落ちた。

 熱かった。

遷居

 月末以降の引っ越しが決まった。予てよりの同居人との不和の為だった。とかく人と暮らすのには参る。生活のリズムが合わねば、騒音でまともに眠る事すらままならない。イヤフォンを貫通する話し声のお蔭で、昔好きだった音声作品すら楽しめなくなってしまった。不平を言おうにも、相手は実の兄である。先方の顔を立てながら、こちらの申し分を通すのは非常に骨が折れる。顔を突き合わせて話すにしても、兄の話し声は窮屈な都会暮らしのためか、郷里にいた頃と比べ蚊の羽音のように小さくなってしまい、口頭では意思の疎通すら出来ない。かと云ってネット経由だと、(これはしばしば気弱な人間に見られる性向だが)向こうの語気が荒いこと甚だしく、聞かされるこちらが惨めな思いになる。また、騒音の原因である相手の趣味のFPSも、これも(己が物件の契約の関係上唯一の気晴らしであるギターをまともに弾けない苦痛を思えば)止めさせるに忍びない。この問題自体身内の不始末であるから、このような不愉快な話題を以て知人に相談するのも申し訳ない。こうしてブログに書くのも本来は好ましくないが、万が一同じ悩みを持つ人がいれば(この悩みから直に解放される身として)相談に乗るくらいは出来るかと思い、書くことにした。そうでなくても、悩苦の言語化は現状打破の第一歩であるから、人に迷惑を掛けない限りで書き出すのがよい。言語によって問題の形を浮き彫りにする、そして此岸の形有るものは必ず何時か形を失う。形を得るのは、いつだって滅びの第一歩なのだ。

 これまで何度も両親に陳情し、己自身家賃を稼ぐ代わりに別居させてくれと頼んだ。しかし両親の生活への無理解(親を貶めるのは気が引けるが、敢えてこう呼びたい)により叶わず、対症療法としてヘッドフォンで浴びるように音楽を聴いたり、酒を以て酩酊したりすることで何とか辛抱してきた。こういった困難な問題に対処するときは所謂Fight or Flight, 則ち闘争か逃走という二種類の選択肢がある。前者は問題に直接働きかけるやり方であり、この場合兄と直に交渉することを意味する。しかし先述の意思疎通の困難を以てしては如何ともし難い。となると残りは逃走である。一時期現住居からの逃亡を目当てに、友人たちの部屋を転々としたり、或いは女性と親しくなり所謂ヒモとして住まわせて貰おうかと真剣に考えたこともある。だが哀しきは次男坊と生まれた身、両親始め他人の手の掛からないことを旨として育った己は、上手い具合に人に厄介になるということが不得手であり、人様に迷惑を掛けてまで逃げるというのがどうも出来なかった。そんなこんなで毎晩のヘッドフォンの音量は上がり、酒量は増え、そのような状態で種々の作業など出来る筈もなく、無為に夜を過ごし、そして昼間は失われた睡眠時間の補填に費やされる。そんな糜爛しそうな生活を二年と半年程(今ほど状況が悪化したのはもっと短い)過ごしてきた。

 事態が展開したのは一か月ほど前、己が煙草を始めたのが母に露見してからだった。我が家は祖父が煙草による肺病(この祖父も苦労人らしく、労苦のため慣れない酒や煙草を無理に嗜み随分と寿命を縮めたらしい)で命を落としており、家訓として禁煙の旨を厳しく言われていた。親父も母も兄も、家族に一人として煙草を吸う者はいない。自分も吸わないつもりだった。ところが、己は心の平穏のため喫煙を始め、そして今まで孝行息子であった次男坊に非行の兆しあると見るや否や、両親の方から転居先の紹介が日に二度三度、四度五度と来るようになった。そんなこんなで昨夜、転居先が決まった。少し狭いが交通の便もよく閑静な土地にあり、小綺麗で人を呼ぶに堪える部屋だ。

 新しい生活を前に、胸は洋々と期待で膨らんでいる。好きに眠れ、好きに歌が創れ、好きに台所が使え、好きに洗濯が出来、好きに掃除が出来る。そして何より、自分の裁量の分だけ、心地よい重さの責任が圧し掛かる。立派な掛け布団のような、心地よい重みである。綺麗な部屋なら、好きな花を飾っても見劣りしない。窓際に立派なカサブランカ百合を生けよう。古いレコードプレイヤーの喇叭のような形をしているから、きっと楽器の隣でもよく映える筈である。そうやって見栄え良い部屋になれば、人を呼びたくなるだろう。これまで世話になった人、これから世話になる人を呼んで酒でも振る舞いたい。既にして心は先のことで一杯である。

 隣室からの騒音が已んだ。今日はもう寝るべきか。

 おやすみなさい。

 

 

 

 

 

沈むコンコルド

 施すという行為は見返りの要求を含意しているのだろうか。そんなことを思って、近頃はあまり人に親切にしないようにしている。自分自身、他人に親切にされると、その相手に幾分か心を開いている場合でなければ却って癪に感じたりする。逆に言うと、自分に驕ることが出来た人は相当懐かれていると思ってもらってよい。驕ったものが日本酒のひと瓶や紙煙草のひと箱なら、きっと尻尾を振り振り、犬のように貴方を慕い歩くかもしれない。これは少々あざと過ぎるか。

 質の悪いことに、自分が人に施す、教える、奉仕することは大好きだ。これは一種の優越願望であるのは間違いないだろうが、実感としてはそれ以上に、自分のもとからモノや優越が無くなっていく、己が身軽になっていく感覚が愛おしい。もしくは自分から離れていったモノや知恵が、他の人の一部となって生き続けることに何か喜びを覚えるのだろうか。こう表現すると少しは心当たりのある方もいるかもしれない。施すという行為は、その行為者に、老衰にも似た(これは只の与印象的表現)安堵を与えるものだろう。

 ここまで書いて、この先この文章を不吉な、或いは誤解を招く展開にしか運べないであろうことに気付いた。最早これ以上はブログという形式で書くべきでない。この辺にしよう。僕が何を書きたかったかはタイトルから察してほしい。尤も、伝える気が感じられないと言われればそれまでだが……それはともかく、最近文章の読みやすさを褒めてもらえることが増えた。これは素直に嬉しい。称賛は贈与などに比べると見返りの要求性が強くないため、まだ安心して喜べる部類の施しである。是非もっと褒めてほしい。今回はちょっと読みにくいかもしれないけど。

それはそれとして、伝わってるといいな。

 

おしまい。

Diary

 ブログという形で文章を書くのは、これで四回目になる。元々は日常の雑感をそそと纏めて日記兼備忘録といった文章にするつもりだったが、生憎この自意識過剰な饒舌体の語り口のために、前三回は少々日記の枠を超えた分量になってしまったと反省している。これでは続くものも続かない。日記というものは、(少なくとも自分にとっては)日々を振り返り慈しむために書くものだ。楽しかったことと嬉しかったことを素地に、悲しかったことや辛かったことも練り込んで簡潔に纏め上げる。そうすれば、後から見返した時に少しは実のある生活を送っていると思えるのかもしれない。

 このところ数日間は投稿が停滞していた。これは先日のすみだ行き以降の漠然とした幸福感のためである。ここ数年間このような、敢えて言葉にするなら”ぽわぽわ”した穏やかな心持になる事はなかった。ここ数年どころか生まれて初めてかもしれない。前例のない体験が故に、この気分(”感情”ではなく”気分”)について距離を置いて客観的に眺めるという事がなかなか出来ない。今ある心情を客観的に眺めることが出来ないと、他者に言葉を用いて論理的に説明するというのが難しい。言葉を用いた表現が出来ないという事は、文章が書けない。今はこうやって”文章が書けない”ということを文章にして事無きを得ているが、これは一種の禁じ手である。二度目は無い。これからは取り敢えず日記を書くという本懐に立ち返り、起きた事と感じた事を簡単に書くべきか。

 そんなこんなで先程、例の好きな子に文章が書けなくなったという話をした。すると職業柄芸術家が身近な彼女らしく、物書き含む創作者が日常への不満の解消とともにスランプになるのはよくある事、と直ぐに断じてみせた。そして彼女の言うには、もし日常の満足が原因で困っているのなら私がそれを破壊してやる、と。参ったことに、このせいで僕の頭のぽわぽわは更に悪化した。もはや実のある文章など書いていられまい。

 何度も言う通り、自分はこの文章を日記として書いている。そして、先に述べた通り日記には日々の些事とそれに対する心情の簡単な変化を記述すればそれで充分である。であれば今の自分が書き残すべきは一つ、今僕は素敵な出会いのおかげで頭のぽわぽわが取れず、きっとそれは客観的には幸福と呼ばれるべき現象なのだろう、それだけだ。

 最後に、僕が日記を書く切っ掛けになった楽曲を紹介したい。この歌は今僕が自分の結婚式ないし葬式で流したい(流してほしい)最たる歌だ。歌詞は文字として公開されていないものの、此岸の無常を意識しつつ、日記という形で過ごした時間をこの世に留め、日常≒現世への力強い肯定を歌い上げる現代版『白骨の御文』と言ってもいい名文章だ(『白骨の御文』自体は来世利益を願う文章だが、来世を意識して現世を大切に生きるよう促すという点で強い現世志向があると僕は思っている)。ここまで僕の文章を読んでくれた方なら、少なからず思うところのある歌だと思う。是非聴いてみてほしい。

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 それでは、よい夢を。

浮き沈み

 神経の慰めに即席の味噌汁を二杯、午前一時半のことである。出汁と味噌の優しい旨みと塩気、具と味噌のでろでろを溶くお湯の温かさが嬉しい。昨日は少し肌寒かった。先日の台風に伴って雨が降り続いた後、湿気と共に暑さが少し和らいだようだ。もう夏も終わりなのかもしれない。思えば、今週の中頃にはスーパーの店頭に福島産の梨が並んでいた。一方で、さっき散歩中見かけた花壇のサルビアの花はすっかり花弁を落として茎と葉だけの寂しい姿をしていた。季節は着実に移り変わっている。つい先週まで夏真っ盛りの中にいたのに、今はもう夏から最も遠い時期にいる。時間は立ち止まらず、それでいて季節は一回りして帰ってくる。回りながら進むもの。高校の頃数学の先生がスクリーンで見せてくれた正弦曲線を思い出した。横軸が時間だとしたら、縦軸は何だろう。真っ先に思い付くところでは気温か。これは掘り下げてみると示唆に富んで面白そうだ。また考え直そう。

 二年程前に教養科目として受講した認知脳科学の教員が、世の中の大概は波およびその関数で記述できると言っていたのをふと思い出す。あらゆる事象は時間を独立変数として増加したり減少したりすると。これには感心した。浮き沈みの背後には時間の流れがある。ずっと生きていればいい時もあり、悪い時もある。浮き沈みで思い出したが、海棲のプランクトンも日周鉛直移動といって浮き沈みをするらしい。植物プランクトン光合成のために朝浮き上がり夕べに沈み、それを追う動物プランクトンも浮いたり沈んだり、その塩梅で朝マヅメ、夕マヅメといった釣りの好機が生まれると昔行き摺りの釣り人に昔教わったことがある。前回も言及したが、今の自分の好きな女の子は彼女自身の流されやすさ故にしばしばプランクトンを自称している。この日周鉛直移動の話をしたら喜ぶかもしれない。それで何か彼女の中に閃くものがあれば幸いである。

 浮き沈みは時間の関数。この世の全ては波。実りの少ない教養学部の授業で得た数少ない警句であった。だが、この言葉に感銘を受けたつかの間、学生からこんな質問があったのを思い出した。曰く、視覚・聴覚は波動を捉える感覚だが、味覚はどうかと。教員は少しばつの悪そうに、味覚は波動でないと答えていた。確かに味噌汁は年中美味しい。かなり雑な理解ではあるが、二年越しの合点である。いい時もそうでない時も、味噌汁さえ飲んでいれば何とかなる。今のところ大学に通って得た最大の教訓だ。

 今回は雑感とは言え、先の二回に比べると余りにも中身に乏しい。だが今後も継続的に日記的文体で書くのなら、今日程度の軽みが適していよう。あまり頭を働かせては眠れなくなる。今回はこの辺りにして、音楽でも聴きながら眠ろうと思う。感謝。

 

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すみだ水族館へ

 文章をブログという形式で書くのは然程簡単ではないようだ。そもそも文章を書くこと自体、コミュニケーションのいち形態である以上様々な困難が付きまとう。そこにブログという形式が加わることで、読み手が不特定多数になり、読者の想定という問題が加わる。これはTwitterでも同様であるが、そちらでの発話行為tweetの語義通り呟きで済ませられる軽微なものが殆どであり、また他者の発話行為は”流れてくる”ものである。一方でブログとなると文量は140字以下に留まることは稀であり、それだけの文字数というコストを超える発話行為である以上、主張したい内容というものが存在する。また読み手も基本はリンク等から自身の興味に従って読みに来る訳であり、このこちらの主張と読み手の関心とのマッチングが上手く行くかがブログの伸びに関わってくる。実際自分はこのブログを日記的な目的で書いており、閲覧数の伸びは大して気にしてはいない。しかしながら読みに来てくれた人には何か気の利いたものを出したいというのが人情であり、近世以降大衆までに旅行文化の浸透した我が国における、旅人に対する一期一会の精神であろう。自分はこの偉大な伝統(尤も存続しているかは疑わしい)に則り、お目通しいただく皆様にお茶菓子程度には足しになる体験を提供したい。このような理由で読者の方々の共通項を想定する。まず真っ先に思い付く読み手として、今自分のTwitterを監視していると思われるネトストの方が2名おられる(無論、主格尊敬語は皮肉である)。次に昨日の投稿のトラフィックを見るに、自分の知的能力をある程度買ってくれていそうな方々にもご覧いただいていたようだ。これらの人々の公約数的要素として、書き手の自分に(その心象が正であれ負であれ)関心を持っている点が挙げられよう。自分は考えるのを止めた。結局己の心が進むままにそこはかとなく書くのが読み手の求めるものに適うため、それが一番コミュニケーションとして適当な手段となろう。そもそもブログという媒体自体、書き手の自己顕示欲求と読み手の出歯亀的欲求の折衝によって今日まで存続しているメディア(原義通り、中間物)である。自分が為すべきは己が思うままに書き、自己顕示欲求―これはしばしば健全なる精神を蝕みうる好ましからざる欲求である―を精々霧消させてあげるのがよい。

 このような発信の場合に問われる重要な焦点としてネットリテラシー、その内この場合の自分に係る側面としては書き手の倫理観というものがあろう。もしここで自分が仮にユダヤ人のジェノサイドの話などしてしまえば、後々発掘され、例え親方日の丸で行われる国際的イベントの要職に在ったりしようとその立場を失いかねないのである(質の悪いことに、自分は己の中にアイヒマン的な凡庸悪の種を抱えており、故に自己言及の内にうっかりホロコーストを引き合いに出すということは十二分にあり得る)。生憎己の倫理観には蝶の羽程の自信もない。もとより倫理の種たる”善く生きる”という発想が、青年期までの己の体験の中で上手く養われていない。だが、それ故に倫理≒常識≒偏見の体系から比較的自由でいられよう。もし先述のように自分が読み手の方々に何か差し出せるとすれば、規範という柵から上手く抜け出す発想程度かもしれない。それもまた思い上がりか。前置きが長くなった。本題に移ろう。

 知人に誘われ、今週末押上界隈及びすみだ水族館に足を運ぶことが決まった。誘いがあるというのは嬉しいことである。例の好きな子も来る。只それだけで十分心が躍る。

 とはいえ、内実自分は水族館の楽しみ方がよく分かっていない。哀しき哉田舎の水産県に生まれた身、海棲生物に対面して第一に湧くのは捌き方や調理法の検討なのだ。平たく言えば、己はマグロの水槽を一言「美味しそう」で言って丸める野蛮人である。流石にそれは避けたい。無論他の楽しみ方が出来ないわけでもない。海棲生物の生態に目を向け、その生活の構造をヒトや生命全般に当て嵌めて頭を働かしてみたり、或いはその命の儚さ、ことば持たぬ生き物故の一途さに胸を打たれてみたりと(これらも単なる文筆家気取りに過ぎないのかもしれないが)出来ない訳でもない。ただ、今回に限ってはそうおちおちと鑑賞屋を気取っていられない。そう、好きな人が来るからである。

 このブログの読者層を想定してノベルゲームで例えよう。好みのヒロインのルート、その子の普段とは異なった佇まいを見られる初めてのデートシーン。そんな文脈で一体どんな好事家であれば背景に目を向けられるだろうか。同じ空間に意中の人物が居る。その事実こそが最大のコンテンツとなり、プレイヤー(≒主人公)たる自身の意識はヒロインを中心に求心的構造を取りはじめる。これは水族館に限らず何処に行こうと変わらない。非日常体験を求め静かな思索に耽る目的で出掛けるに当たって、このような存在は望ましくない。まあ恋をしているなら心の平静が保てないのは当然なので、せめて共通の体験を経てその体験について語り合える相手、簡単に言えば知的体力の強度が同程度かつ思考のある程度似た相手に恋をするのが知的営為を行う人間にとってはよいだろう。尤もそんな小賢しい条件設定すらなかったかのように魅了されるのが恋の恐ろしいところであるが。

 当日はどんな態度で過ごそうか。展示へと意識が向かないのはもう解りきっている。例の子が水槽を間近で眺めている間、魚の写真でも撮る振りをして後ろ姿でも写真に収めようか。丁度卓上カレンダーが欲しいと思っていた。12枚と言わず370枚くらい撮るのもアリだろう。水族館ではフラッシュが焚けないから閃光で相手に気付かれることはない。水槽の反射も、水槽の内容物を見に来た人間が気にすることはない筈だ。これはいいアイデアだと思う。それに確かすみだには開放型のクラゲの水槽があった。普段からプランクトンを自称する彼女(これは彼女の流されやすさの喩え)である。水槽の上に出っ張った通路から突き落とせば、きっとクラゲ達が群がって綺麗であろう。色素の薄い彼女の肢体は、海月の半透明な体を通り抜けた弱々しいパステルカラーの照明に照らされ、きっと幻想的な光景を見られるに違いない。その時には写真を撮って、先のカレンダーの彼女の誕生日にでも据えよう。きっと彼女も喜ぶはずだ。

 

 と悪質な猟奇趣味のままに文を連ねているが、実のところ先述のネトスト2名のうち片方は、プランクトンたるその子なのである。きっと彼女はここまで読んで自らを対象にした妙にリアリティのある邪悪に恐れ戦き、そしてこの段落を迎えてその邪悪が僕(”自分”ではなく”僕”なのは、”僕”の方が普段彼女に対して用いている二人称である事に因る)の意図的な表現であることに安堵するとともに、今度はこの方向の錯綜したコミュニケーションの複雑さに厄介さを感じ、そして僕の演出した邪悪が一体どんなシニフィエを持つのかに頭を悩ませたり悩ませなかったりするのだろう。ここまで虚構染みたコミュニケーションを展開して尚彼女が僕の言葉の真実性を信じてくれるかは分からないが、僕が彼女に与えたかったのはリアリティの浸蝕による不安とそれに伴う陶酔である。陶酔は愛情の持つ愛する主体へのひとつの作用であり、目先の不安とその不安に対する理性的測量の認識を麻痺させることで一時的に不安を取り除く効能がある。これは”愛する主体”への効能であるから、自分と彼女で言えばこの作用による受益者は自分(”僕”ではなく”自分”)である。つまるところこの文章の執筆及び公開の目的は、普段自分が彼女のおかげで感じている陶酔(≒心強さ)を彼女に身を以て感じさせることにある。その目的の達成のためには敢えて彼女との二者間におけるコミュニケーションを離れ、このような第三者を巻き込む形式を取らねばならなかった。これは中々に純愛的な手段だと思う。今読者の方々(彼女を除く)は、仕組まれた惚気に巻き込まれ3000文字以上も読まされたという悔しさを大なり小なり抱えていよう。このような周囲の人間を巻き込み、時に彼らから否定的な見解を持たれるのは、純愛的な事象に付随してよく見られる現象である。皆様の否定的心象すら”純愛”なる事象の表現に利用しているのだから、本当にこの書き手は質が悪い。しかし、もとより生命体の行為など全て利己的な側面を持つものであり、一見利他行為に思える行為、もそれは”自己”の範囲を時間的ないし空間的に拡張したものに過ぎなかったりするのだ。笑って許してほしい。とはいえ彼女以外の読み手すべてを”周囲”という下位カテゴリに押し込めたとあっては、先に述べた一期一会の精神など有って無いようなものだが……

 やや言葉を連ねすぎた。この頃饒舌なのも恋なる故か。とにもかくにも今週末が楽しみでならない、これに尽きる。ここまで駄文に付き合っていただいた皆様に感謝。

 

C101について

 自分の所属するサークルから、冬コミに向けて”純愛”あるいは”愛”をテーマに文章等を寄稿するよう要請があった。中々扱いが難しいテーマである。そもそも定義があやふやで概念の存在すら明らかではない”純愛”という語を、ひとつ視点をしっかと据えて論述するのは並大抵のことではない。前者の困難に関して言えば、これは何とかならないこともない。”純愛”の正体が明らかでないからこそサークルを作ってまで述べる価値がある訳で、存在の未確認な概念の正体を状況証拠などから手探りで解き明かしていくのは、惑星の公転軌道のズレからその外部にある未知の惑星を探すような、如何ともしがたい悦楽があるように思う。発見の手法もこれまでの偉大な学者たちの手法・論法を踏襲すれば何という事はない。
 しかし、後者の視点の設定という問題は難儀である。述べるという行為は、その最小単位たる文というレベルですら、事物(一般に名詞で表される)が他の事物との間や何らかの状況下で営む関係(一般に動詞で表される)を表現しようとする。文章を書く以上、語り手と語られる対象との関係性には注意を払わねばならない。学術的な文章であれば、研究対象の再現性が高いため、関係性の記述には比較的無頓着でいられよう。則ち、語り手が誰であろうと1+1は2であるということだ。だが、自分は”純愛”、そもそも”愛”について何か新しい概念を発明しつつ歴史上のあらゆる”愛”的な現象を論ずるという学者的な文章を今書く気にはなれない。それが多大な労力を要する一方で車輪の再発明にしかならず、誰かの役に立つとも思えないからだ。かくして自分は”愛”なる概念について、自分との関係性を下敷きにした文脈でのみそれを述べることしか出来なくなった。
 だがそれはそれで問題である。”愛”という概念はその身近さと理解が容易そうな側面(これは自称言語学好きが多いのと同じ要因である)、更にはその探求の姿勢が詩人を気取るのに打ってつけだったこともあり、故に各々の人間が各々の文脈で解釈を加え、各々の解釈を自身の信条としてしまっている。同様の現象は”ロック”や”オタク”といった言葉への解釈でもしばしば起きうる。これらの語は自己信条化が進みきった結果、公の場でその定義を述べるだけで血で血を洗うような喧嘩を招く言葉となってしまった(因みに自分の大好きなバンド、デュフフ★こんぱにおんは”愛””ロック””オタク”全ての要素をアイデンティティに組み込んでいたりする。そのためこのバンドの楽曲の解釈も一時期寄稿のアイデアとしてあった)。特に前述のサークルは所謂オタサー的な側面もあり、構成員も会誌を読んでくれるような方々もそのような有象無象の”愛”の記述に対して食傷でさえあろう。したがってエッセイとして所感を記述することさえも厭わしく感じられてしまった。
 こうなるともう書くことが無い。しかし創設者はじめサークルの方々には拾ってもらったり種々の相談に乗ってもらったりと恩義があり、かつここ最近までサークルの活動にコミット出来ずにいた負い目もある。何かひとつ実のなるものを寄稿したい。愛、愛、お猿さん、バナナ、甘いと種が出来ない、種が出来ると苦い、苦い種、精液、どろどろ、A.T.フィールド。出来の悪い自由連想法に従ってイメージを広げていく。こういった連想を繰り広げることのメリットは、最後には自分の現状の最大の関心事を示唆するワードしか出てこなくなることである。5分程で結論が出た。自分には今、好きな人がいる。その人がいる空間は居心地がいい。自分もその人に居心地のよい空間を提供したい。では空間の演出にはどんな手段があるか。最も自分にとって現実的な手段は音楽である。書きたいものは決まった。
 という訳で、C101の続報をお待ちいただきたい。