最終回

 <行動がその充足をなし遂げることが可能なのは、その欲望の対象を「否定」すること、それを破壊するか、あるいは少なくともそれを変化させることによる以外ない。たとえば飢えを充足させるためには、食料となるものを破壊するか、あるいは変化させる必要がある。このように全て行動というものは、「否定的」に作用するのである。>

(コジェーヴヘーゲル読解入門』)

 

 太陽の宿命。享受や権利を歓ばず、もっぱら贈与や義務を歓ぶ者。愛される事を我が事とせず、もっぱら愛する者。最も満ち足りた外面、それが故に最も餓え、かつ孤独である者。私は一度だけ、そのような者に出会った事がある。彼女は地上の太陽、つまり夕焼けの類(故に私の陰を最も濃くし、私の影を最も引き延ばした!)。新しい約束、エロティシズムの命題をもたらした女キリスト。どうしようもなくぶりっ子で、驚くほど色気の無い純潔主義者。禁止命令。この世の唯一にして、至高の法源。爾来私はずっと、己を彼女の懐刀と心得ている。彼女の余りの眩さに盲いてしまわないよう、背を向け、力の限り遠くへ、尚遠くへ。私はボイジャー冥王星と逃げ遂せるのが当面の使命……

 

 この一か月、私は新たな二つの習慣を得た。一つは拳闘を通じた肉体の鍛錬、もう一つは毎日の聖書の奉読と読解、および礼拝への参加である。いずれも主な目的は精神と肉体との分離、および再統合(re-ligion)の感覚を掴むためである。己の肉体を、物性を備えたひとつの道具として扱うこと。そしてそのような道具使用の反作用として、己の精神により明晰で精緻な構造を与えること。この二つが当面の生活上のテーマである。その追求の先に何が待っているかはまだ分からない。きっとかつて通り過ぎた凡庸な景色が、旧友の面をして再びやって来るのだろう。しかし今の私は、それを恐れない。

 

 人を殴ること。これは暴力的行為の典型であるが、よくよく考えてみると実は暴行の中でも比較的優しい部類のものである。子供の内ならいざ知らず、大人になってから人を投げたり突き飛ばしたりすれば、成人の身体ではその重量や反射の鈍さからして命の危険がある。また、蹴りでは脚の可動域的に大腿のような折れやすい骨のある部位、腹部のように骨格の防御すら無い部位を攻撃することになってしまい、そもそも脚の筋パワーは腕の三倍と言われている。鈍器や刃物、拳銃を用いた凶器攻撃に至っては論外。やはり、暴力を振るう際は拳で手づから殴ってやるのが一番妥当である。尤も、暴力は暴力なので、一番肝心なのはやはり抑制であり、みだりに殴ってはいけない。

 右ストレートを打つ。このとき重要なのは、やはり己の腕を物体として扱うこと。一連の動作のうち、拳に勢いを乗せる段階では腕の力を抜いて速度を確保しなければならないが、衝撃の瞬間には拳から腕、肩から上体の筋肉を固め、かつ肘を伸ばし切り、全身を一つの鉄塊として、余すことなく威力を伝えなければならない。感覚の分割と再統一。それはまるで詩を書くのにも似た、芸術家の感覚である。素材を色々に繋いで継ぎ接ぎした物体が、ある瞬間を境に不思議な統一感を獲得するのだ(会心!しかしこの快感はやがて自らの罪を贖うように減衰する……)。

 

 聖書、新約の読解。私は福音書の説く教えを、霊魂の不滅と三位一体とを原理とした愛の経済法則と解する。イエスはわれわれに、父なる神からの無償にして無限の恩寵、則ち愛の存在を信じ、また受け取った愛を地上に行き渡らせることを説き給うた(マルコ第12章28-37節)。この愛の流通構造には、父なる神および子なるイエスへのわれわれからの愛(=信仰)の還流と、父なる神およびその遣わし給う聖霊、子なるイエス、そして信徒による、地上なる人間への愛の頒布との二つの側面がある。父を太陽に、聖霊を光に、子を太陽の恵みなる生命にと読み換えれば、第一の愛の還流の構造は、太陽からの無償の贈与に感謝し生贄を捧げたアステカ人の信仰にもみられたものである。そして、第二の地上での愛の頒布。こちらはわれわれによる実践の問題だが、実のところ私はこの愛なるものの表し方がよく分からない。贈与。今はただ、誰かのためにこの世に置いて行くもの、置いて行けるものを手探りで探すばかりである。それはきっと、私の霊魂がかつて道具だと見做していたものばかりになるのだと思う。

 

 礼拝への参加。入り口で聖歌集と書かれた分厚い冊子を受け取り、片隅に座る。堅い木の長椅子は座っているだけで疲れる。聖堂で見知らぬ人たちと一緒に讃美歌を歌うことに。譜面を見ると不思議なメロディで、作曲家がわざと音を外して、歌い手が心地良くなるのを妨げているようにも思える。やがてオルガンの前奏、歌唱の開始。美しくも歪な旋律が、よく歌声の響くよう設計された教会の中に響き、私の身体を、精神を浸していく。天邪鬼な私はその浸潤に逆らおうとし、刹那、私は引き裂かれ、目と耳と舌だけが<わたし>の味方、手足の感覚は失われ、後退する自我の前線。その逆境に却って私は確信する。<歌ならばどこへでも連れていける!>。涙と笑いと歌と、神様と太陽と、文体と血液と腸と、溢れるものだけが本当。肉体を放り捨て、羽根が生えたように<わたし>は軽い。ここに天使の名残り。楽譜には夢見心地の、存在しない演奏記号。<愛し得る限り愛せよ>。やっぱりこれが第一の戒命。

 

 胸に溢れるもの、桃色の傷口を抱え、私もまた太陽の子であった。この傷は、淫蕩な発想、死への慣れ親しみを祓い除けた今となっては、もはや不死の象徴、聖痕である。<死に至るまで、生を称えること>。

 禁止と侵犯、相剋の運命にある我等の、遠ざかりながらも再び会わんことを願って。

 

エロ ~走る小人、笑う恋人~

 このところ、初期の七尾旅人ばかり部屋で流している。よく聴くところでは、「コナツ最後の日々。」「萌の歯」「ガリバー2」「コーナー」「戦闘機」「5日前まで○○だった女の子と医師マニアの冒険」。コード譜が拾えるものであれば、自分で弾きながら歌ったりもする。旅人の歌を声に出して歌うと、自分が天使、罪も穢れもなく、大義を抱えて飛翔する存在になったようで気持ちがよい。むしろ、そう思い込まないと上手く歌えない。マイナー調であっても、軽やかに、微笑むように歌うのがコツだ。

 

 旅人の曲がわれわれに天使を思わせ、或いは我々自身を天使のように感じさせてくれるのには、主に2つの理由がある。第一には、音遣いの問題。旅人の曲は、典型的男性の喉で歌おうとすると、基本的には裏声混じりになってしまう。このとき声の大半の成分は喉より上の頭部、頭蓋の中に反響するので、腹式呼吸のときの全身に振動が広がるような快感とはまた別の、パワーの感覚ではない快感が感じられる。第二に、歌詞の問題。「萌の歯」「ガリバー2」「コーナー」の3曲には顕著だが、初期の旅人の曲には独特のヒロイズムが流れている。不運な境遇の中に生きる女の子(この際性別は関係ないのかもしれない)に対する憐みと愛情を、そのケアの感情が持つ暴力性を自覚した上で、旅人は時に奔放に、時に繊細に歌い上げる。この歌詞におけるヒロイックな世界観は、旅人のサウンドメイキングの類稀なるセンスと相まって、初期の作品群をひとつの完成と成している(尤も、当の本人が初期の作品群を気に入っているかは別問題として……)。

 自分が旅人の初期の作品群を好きなのは、このヒロイックな構造の中に、彼のエロティズムへの深い洞察と、その洞察を可能にする彼の真摯さがみて取れるからである。ひとつの解釈として、自分は「ガリバー2」という曲のタイトルが「小人の国」的な自身と他者との間の力・立場の差の存在を示したものだと考えている。このような愛し合う二人の境遇の差は、その立場の交換不可能性という点で、エロスの不可能性の命題と通じる。われわれは一人の相手を深く愛するとき、その経過する段階のひとつとして、彼女/彼の存在が<世界>のメタファーそのものであり、また逆にこの世界全てが彼女/彼の所有、ひとつの国家であるかのように感じる。そこでは知覚し得る事物は全て彼女・彼の事を思い出させる一種のアトリビュートとなり、全てが彼女/彼に属するようになる。しかしこのとき、われわれの意識、自己だけはこの体系に取り込まれず、それ故の数多くの苦しみを抱える(実はここで私は語るに飽きた様々な対立関係、諸段階を無視して論を立てている)。幾度となく合一を望もうとも、同じ幸運を分け合うことも、同じ不幸を潜り抜けることも困難なふたり。この不可能性を無効にするには二人がそれぞれ有する孤独を共通の運命と捉え直し、<世界>を二人称でなく第三者のように感じ、その上で<世界>との関係を考え直さねばならない。すなわち、愛し合う二人は、いずれ一機の戦闘機へ乗り込むこととなるのだ。

 開かれて在ろうとすること。「これからのことを歌おう。(コナツ最後の日々。)」。未来を望むことは、究極的には現在の肯定である。そして、愛し合う恋人達には、<現在>しかない。なぜなら二人にとって過去は振り返るに及ばず、また未来を想うには、彼らが彼ら自身の死を軽蔑しすぎているからである。

「愛情の問題を経済の問題のように解くのね。目的は貧困の解消?」

まあ、そんなところです。

「他にすべきことがある気がするけど……」

それは言わない約束。

 

最近の憤り

 先日から口髭を伸ばし始めた。第一にはこれからの仕事のため、第二には日々の時間の経過に楽しみを見出すため、そして第三、これが最大の理由であるが、その感触を喜んでくれる女の人に報いるため、である。現在のところまだ3週間ほどしか経っていないのでややバラつき気味だが、それなりに満足している。この調子だと、春を迎えるころには立派なシェブロン髭が出来上がっていることだろう。

 

 さて、そんなことで最近はファッション系のサイトをよく覗くようになった。髭の手入れに関するサイトは勿論、顔つきが変われば似合う髪型や服装も変わるので、その辺りも含め全般的に眺めている。が、検索エンジンが悪いのか、ワードが悪いのか、どの男性向け美容サイトに行っても出てくるのは必ず、「女子ウケ」「モテ」「清潔感」。みじめな気持ちになる。気恥ずかしい。世界が狭苦しく感じる。「大の男に向かって……!」と拳さえ固まる。とにかく、一般向けのこの手のサイトを見るのは大変不快である。最近ではとうとう観念してゲイ向けの、それも熊系のサイトを参考にするようになった。少なくとも「女子ウケ」のワードを見掛けずに済むだけで、幾分は気が楽である。

 

 男女の「モテ」が前面に押し出されるときそこには、容貌の美醜の判定は他者、それも不特定の異性集団が行うべきもの、という文字通りの"価値観"が横たわっている。ここで問題なのは二点、自らの容貌を決定する権利がその他の人々に開かれていないこと(全ての人が平等なインパクトを持たないという点で、これは一種の株主総会である)、そして相手たる異性集団が求める理想像とわれわれ自身の持つ己への理想像が著しく乖離しうることである。前者について云えば、容貌というものは最終的には己自身で決定すべきものなのだが、そもそも己の姿というものは鏡像や写真としての形でしか見ることが出来ず、根本的には他者のものと云っていい。肉体は己のものだが、姿は他人のものである。その点で身嗜みは人様に対する心遣いそのものであり、派手に着飾って周りの目を楽しませるのもよければ、あえてみすぼらしい恰好をして周りを安心させるのもよい。つまるところ、優しさが肝心なのである。後者の方、これはもうほぼほぼ意地の問題なのだが、異性の美意識が自身のそれと一致しない中で己を貫かずにいるのは難しい。優雅を愛する女と蛮勇を誇る男、この場合、自らの誇りの方を捨てられる男などおるまい。美意識は名誉の根本で尊厳の守手、人を刃傷沙汰にさえ追い込む生命の超越的精神そのものである。このすり合わせは至極難しい。

 

 なぜ、人は美しく在ろうとし、また人に美しく在る事を求めるのか。それは偏に、我々が他者、このどこまで行っても他者しかいない人間世界の海に、安心して肉体ごと飛び込むためである。我々は容易に欺かれ、また欺く。当然のように侮られ、また侮る。真も善もない世にあって、しかしながら、美だけはわれわれの眼前に、虹の頻度とアスファルトの強度で、はっきりと立ち現れる。それは仰ぎ見られも踏みつけられもするが、しかし確実に、主と客の別を揺さぶっては各々の人間の心に浸透し、分離された個々人の内なる一体性を呼び覚ます。装いの美という話に戻れば、現代に生きる我々には見ることには熱心だが、見られることに関しては無頓着という者が多い。犯されることなしに犯すこと、奪われることなしに奪うことを望む者ら。彼らは誰の眺めるにも値せず、したがって少数の美的存在を仰ぎ見る有象無象としかならない。見られること、すなわち世界に開かれていること、彼らとの関連性によってのみ己を発見すること。美的人格を志す上で忘れてはならない唯一の法則である。

 

 私も薔薇の花のように、内部も外部もなく美しく咲ければよいのだが、しかし、ひげ芽の出た薔薇は刈られる運命に……

 

来迎

 ときたま、特定の小柄な女性相手に、自分は何か特別な、恩寵のような感覚を覚える。別に少女性愛の趣味などではなく、むしろこの感覚は歳が同じかそれ以上の相手に対して覚えることが多い。身体の物理的な小ささがかえって<存在>の背景たる<世界>とその広大深遠さとを意識させ、翻ってはその<世界>を背負い込もうとする小さな<存在>の気焔の尊さをそこに見出してしまう。一種の阿弥陀信仰のように、叶うべくもない望みを現前する人間に託したくなってしまうのだ。(尤も、この<存在>と<世界>の対比はエロゲにおける立ち絵と背景の関係と相似しており、現実的な人間観ではないのだけれど…)今回の日記は、そんな存在にまつわる、ある奇妙な体験と、その体験への簡単な回想。

 

 今年の五月の半ば、都内某大学の喫煙所。とある事情から禁煙を決意した自分は、保管していたすべての煙草を譲るという名目で、当時知り合ったばかりの女性に会いに来ていた。知人は身の丈五尺と小柄ながら、才気煥発、好奇心旺盛、歳がひとつ上だけあって人生経験は豊富、それでいて顔立ちはとても美しく、シーボルトの孫娘と未来仏を足して二で割ったような柔和さを持ち合わせていた。そんな好奇心旺盛な彼女のことだから、ストックしておいた普段吸いの珍しい銘柄の煙草も喜んでくれるだろうと、自分は煙草を渡す相手として選んだのである。

 喫煙所は林の影の、プレハブのような白い小屋。自分達はそこで煙草の受け渡しを行うついでに、試しにひと箱開けて吸ってみることにした。銘柄は、ブラックデビルモカバニラ。かつて町田で浮浪者に教えてもらった思い出の品で、彼と自分以外は誰も吸っていないのがお気に入りの、コーヒー風味の煙草である。彼女は差し出した箱から細い二本の指でその黒い紙巻を一本抜き取ると、関東の女性らしからぬ血色のいい唇にそれを咥えてみせた。すかさず自分は火を点ける(被虐趣味の変態の面目躍如の瞬間である)。彼女はその一口目をゆっくり吸うと天を仰ぎながら煙を吐き、ひとこと味の感想を口にして、再び俯いて煙草を口に近付けた、そしてその時。バチン、と弾けるような強烈な閃きの感覚が、脳中を駆け巡った。それは、国宝の弥勒菩薩像との強烈な既視感でもあり、理想が現実になり、現実が理想になる空恐ろしい快感でもあった。自分はあの日以来、己が生きているとも死んでいるとも知らず、まるで自分の名前を丸ごと無くしたかのような晴れ晴れした気持の中にいる。そして、今もそれは変わらない。

 

 一体己は悩んでいる。あの日以来、己は人生に影を無くした。つまり、太陽との位置的な関係性を。あるいは、夜の最中において輪郭を。何者も増えず、何者も減らず、全てはただ、砂時計の両側のように与え合い、消滅し合うだけの気侭な世界へ、己は迷い出てしまい、居心地こそよいものの、未だこの世界から脱出する術を知らない。そしてその世界へと自分を誘った"印象としての"彼女とは別に、現実の彼女は、今こちらの世界へと関心を向けており、つまるところ自分に興味を示してくれている(有難い事だ!)。そして、己は自身が興味を示してもらうに足る存在であることを知っていて、見られる覚悟も、やがて見られなくなる覚悟も出来ている。しかし、問題は<存在>そのものではなく、私の肩越しに燃えている<世界>の方なのだ!

 

 あの狐のような眼差しが霞むことなく、よき狩人の眼のままでいられるように。私は望む、アリアドネの糸にも似た、涙色の目薬を。

 

6/9

 最近は報酬系がひどく狂うような悲しい出来事があって、そのせいか寝て見る夢だけが唯一の楽しみになってしまった。悲しい。己の生存圏とでも呼ぶべきパワーの領域が縮小し、自我の前線が著しく後退してしまったようだ。起きていても特に期待すべき喜びは無く、会う人々がみな昔出会った人々のパロディとなるように思われる、そんな喪失の状態。だから、私は眠りに落ちる。混淆するイメージの湧昇が私を予想外へと放り出してくれる、身軽さの中へ。遠ざかってしまった人々と再び会えるクニへ。

 

しかし振り向きたくなるのもやはり人の哀れな性?

 

 

 

 

4/27

 美なるもののすこぶる厄介な特質として、その鑑賞の対象が鑑賞者にとってあたかも自分の事のように感じられてしまうという点があると思う。美しいものは、あくまで主観に、観る/聴く…人の内部に火焔を生じる。簡単に言えば、憧れを生むのだ。そして、憧れはいつも身の程知らずで、尊敬と軽蔑を同時に自覚する。破廉恥な放埓漢が、不釣り合いにも極上の女を望むように。或いは、14歳の少年がヴァン=ヘイレンに憧れてギターを手に取るように。ギターに限らずとも、本当に優れた演奏者は精緻な技巧をいとも簡単に演じてみせることで聴衆の情欲を掻き立てる。美人に限らずとも、何かしらの美徳を兼ね備えた人物はその像を原型とする表象を多くの他者に有される。ヒーロー/ヒロイン的な表象。足の速いアキレウス、聡明なテレマコス、ほにゃらららなほにゃららら……

 

 色々書きたい事はあったけど、酔いが回って悲しくなってきたので今日はここまで。

 

聖餐

 あらゆる種のパーティーが苦手だ。便所で自殺したくなる。夜もまたひとつの太陽だとは云うけど、こんな太陽なら撃ち落としてしまえと思う。出来ない。近くで見ると、存外でかい。快楽の贈与によるコミュニケーションが出来る人々は、個体の輪郭を超えて一つのグロテスクな塊、肉の巨星を構成しているように見える。絶えず対流し、絶えず放射する狂気の塊。だから逃げ出したくなる。私はボイジャー。太陽の光の及ばぬ場所まで飛んで行こうとする。照らされてたまるか、ルナティックになってたまるか、と。

 殺さねばならぬ。聖者の弟子を順番に。

 断らねばならぬ、慈悲の顔した血杯を。 

 

 これは只の、夜の街に足を運んだ体験談。