最近の憤り

 先日から口髭を伸ばし始めた。第一にはこれからの仕事のため、第二には日々の時間の経過に楽しみを見出すため、そして第三、これが最大の理由であるが、その感触を喜んでくれる女の人に報いるため、である。現在のところまだ3週間ほどしか経っていないのでややバラつき気味だが、それなりに満足している。この調子だと、春を迎えるころには立派なシェブロン髭が出来上がっていることだろう。

 

 さて、そんなことで最近はファッション系のサイトをよく覗くようになった。髭の手入れに関するサイトは勿論、顔つきが変われば似合う髪型や服装も変わるので、その辺りも含め全般的に眺めている。が、検索エンジンが悪いのか、ワードが悪いのか、どの男性向け美容サイトに行っても出てくるのは必ず、「女子ウケ」「モテ」「清潔感」。みじめな気持ちになる。気恥ずかしい。世界が狭苦しく感じる。「大の男に向かって……!」と拳さえ固まる。とにかく、一般向けのこの手のサイトを見るのは大変不快である。最近ではとうとう観念してゲイ向けの、それも熊系のサイトを参考にするようになった。少なくとも「女子ウケ」のワードを見掛けずに済むだけで、幾分は気が楽である。

 

 男女の「モテ」が前面に押し出されるときそこには、容貌の美醜の判定は他者、それも不特定の異性集団が行うべきもの、という文字通りの"価値観"が横たわっている。ここで問題なのは二点、自らの容貌を決定する権利がその他の人々に開かれていないこと(全ての人が平等なインパクトを持たないという点で、これは一種の株主総会である)、そして相手たる異性集団が求める理想像とわれわれ自身の持つ己への理想像が著しく乖離しうることである。前者について云えば、容貌というものは最終的には己自身で決定すべきものなのだが、そもそも己の姿というものは鏡像や写真としての形でしか見ることが出来ず、根本的には他者のものと云っていい。肉体は己のものだが、姿は他人のものである。その点で身嗜みは人様に対する心遣いそのものであり、派手に着飾って周りの目を楽しませるのもよければ、あえてみすぼらしい恰好をして周りを安心させるのもよい。つまるところ、優しさが肝心なのである。後者の方、これはもうほぼほぼ意地の問題なのだが、異性の美意識が自身のそれと一致しない中で己を貫かずにいるのは難しい。優雅を愛する女と蛮勇を誇る男、この場合、自らの誇りの方を捨てられる男などおるまい。美意識は名誉の根本で尊厳の守手、人を刃傷沙汰にさえ追い込む生命の超越的精神そのものである。このすり合わせは至極難しい。

 

 なぜ、人は美しく在ろうとし、また人に美しく在る事を求めるのか。それは偏に、我々が他者、このどこまで行っても他者しかいない人間世界の海に、安心して肉体ごと飛び込むためである。我々は容易に欺かれ、また欺く。当然のように侮られ、また侮る。真も善もない世にあって、しかしながら、美だけはわれわれの眼前に、虹の頻度とアスファルトの強度で、はっきりと立ち現れる。それは仰ぎ見られも踏みつけられもするが、しかし確実に、主と客の別を揺さぶっては各々の人間の心に浸透し、分離された個々人の内なる一体性を呼び覚ます。装いの美という話に戻れば、現代に生きる我々には見ることには熱心だが、見られることに関しては無頓着という者が多い。犯されることなしに犯すこと、奪われることなしに奪うことを望む者ら。彼らは誰の眺めるにも値せず、したがって少数の美的存在を仰ぎ見る有象無象としかならない。見られること、すなわち世界に開かれていること、彼らとの関連性によってのみ己を発見すること。美的人格を志す上で忘れてはならない唯一の法則である。

 

 私も薔薇の花のように、内部も外部もなく美しく咲ければよいのだが、しかし、ひげ芽の出た薔薇は刈られる運命に……