エロ ~走る小人、笑う恋人~

 このところ、初期の七尾旅人ばかり部屋で流している。よく聴くところでは、「コナツ最後の日々。」「萌の歯」「ガリバー2」「コーナー」「戦闘機」「5日前まで○○だった女の子と医師マニアの冒険」。コード譜が拾えるものであれば、自分で弾きながら歌ったりもする。旅人の歌を声に出して歌うと、自分が天使、罪も穢れもなく、大義を抱えて飛翔する存在になったようで気持ちがよい。むしろ、そう思い込まないと上手く歌えない。マイナー調であっても、軽やかに、微笑むように歌うのがコツだ。

 

 旅人の曲がわれわれに天使を思わせ、或いは我々自身を天使のように感じさせてくれるのには、主に2つの理由がある。第一には、音遣いの問題。旅人の曲は、典型的男性の喉で歌おうとすると、基本的には裏声混じりになってしまう。このとき声の大半の成分は喉より上の頭部、頭蓋の中に反響するので、腹式呼吸のときの全身に振動が広がるような快感とはまた別の、パワーの感覚ではない快感が感じられる。第二に、歌詞の問題。「萌の歯」「ガリバー2」「コーナー」の3曲には顕著だが、初期の旅人の曲には独特のヒロイズムが流れている。不運な境遇の中に生きる女の子(この際性別は関係ないのかもしれない)に対する憐みと愛情を、そのケアの感情が持つ暴力性を自覚した上で、旅人は時に奔放に、時に繊細に歌い上げる。この歌詞におけるヒロイックな世界観は、旅人のサウンドメイキングの類稀なるセンスと相まって、初期の作品群をひとつの完成と成している(尤も、当の本人が初期の作品群を気に入っているかは別問題として……)。

 自分が旅人の初期の作品群を好きなのは、このヒロイックな構造の中に、彼のエロティズムへの深い洞察と、その洞察を可能にする彼の真摯さがみて取れるからである。ひとつの解釈として、自分は「ガリバー2」という曲のタイトルが「小人の国」的な自身と他者との間の力・立場の差の存在を示したものだと考えている。このような愛し合う二人の境遇の差は、その立場の交換不可能性という点で、エロスの不可能性の命題と通じる。われわれは一人の相手を深く愛するとき、その経過する段階のひとつとして、彼女/彼の存在が<世界>のメタファーそのものであり、また逆にこの世界全てが彼女/彼の所有、ひとつの国家であるかのように感じる。そこでは知覚し得る事物は全て彼女・彼の事を思い出させる一種のアトリビュートとなり、全てが彼女/彼に属するようになる。しかしこのとき、われわれの意識、自己だけはこの体系に取り込まれず、それ故の数多くの苦しみを抱える(実はここで私は語るに飽きた様々な対立関係、諸段階を無視して論を立てている)。幾度となく合一を望もうとも、同じ幸運を分け合うことも、同じ不幸を潜り抜けることも困難なふたり。この不可能性を無効にするには二人がそれぞれ有する孤独を共通の運命と捉え直し、<世界>を二人称でなく第三者のように感じ、その上で<世界>との関係を考え直さねばならない。すなわち、愛し合う二人は、いずれ一機の戦闘機へ乗り込むこととなるのだ。

 開かれて在ろうとすること。「これからのことを歌おう。(コナツ最後の日々。)」。未来を望むことは、究極的には現在の肯定である。そして、愛し合う恋人達には、<現在>しかない。なぜなら二人にとって過去は振り返るに及ばず、また未来を想うには、彼らが彼ら自身の死を軽蔑しすぎているからである。

「愛情の問題を経済の問題のように解くのね。目的は貧困の解消?」

まあ、そんなところです。

「他にすべきことがある気がするけど……」

それは言わない約束。