生活はつづく

 諸事情でボツになった自作ポップソングのタイトルを添えて……

 春休みに入ってから割と元気に暮らしている。起きて顔を洗い、白湯を飲み、軽い食事とコーヒーを胃に入れる。その後は本(最近は実用書が多い)を数種類同時進行で頭が痛くなるまで読み、頭痛に耐えられなくなったらピアノの練習に移る。37鍵(3オクターブ+ド)しかないMIDIキーボードを使っているので、両手で弾けるピアノ専用の曲はあまり無い。取り敢えずソロギターの楽譜をピアノ用に読み替えると音域的に丁度いいことに気付いたので、Chet Atkinsの曲のうち好きなものを練習曲にしている。同じ曲を別の楽器で弾く(ついでにメロディを歌う)と音程の感覚が鍛えられて楽しい。ピアノに飽きたらギター、ギターに飽きたらピアノ、と腕が疲れるまでやる。読書も音練も、苦痛が思考能力を奪ってくれるまで行うのがミソだ。

 そうやってしっかり頭を働かせた後は食事と休養・睡眠を十分に取る。食事は大抵一食につき二合の米の飯を、納豆や漬物などすぐ供せるものと一緒に平らげている。睡眠は予定が無い限り満足するまで取ることにしているが、よく疲労しよく食べていると自然に常識的な長さへと収まる。食べること寝ることに飽きればまた何か活動を始め、活動が苦痛に達すれば食べるか寝るかする。こういった満足と苦痛を規律とする生活を、自分は秘かに「個人的兵営」と名付けている。尤も、兵隊のように生命を超える価値はまだ背負っていないのだけれど。

 限られた、というか限った条件の中で自律的に行動し、その行動を通し何らかの限界に達することで自らの輪郭、存在の確かさを確かめる。苦痛は情の盛んな恋人に似て、頻りに交合を欲しては、冷たく重い肉感でこちらを拒絶する。性行為の苦しみは自分の輪郭を知る苦しみで、絶頂と同時に死ねない苦しみでもある。生活の苦しみもこれに相同。自分の限界を知る苦痛と、明日も生きなければならない苦痛。両者ともに快楽として読み換えることが可能だが、それには相当な気焔、気骨が要るのは疑いない。良くも悪くも、生活はつづく。そのことをどう評価するかが苦痛と快楽との線引きを決めるのだろう。これは評価なので当然尺度が要る。結局はやっぱり自恃の問題か。

 

 雑然と書き過ぎたことに反省。いつものことだが、文章を書くに当たって筋立てをしない、文脈を極力作らないのは不親切とは重々承知している。自分でも毎度読み返す度に各文が漫画のコマのように飛び飛びになっているように思える。これは言葉というものが時間とともに線状に伸びていくものなのに対して、自分の発想が面的ないし空間的に広がるせい。勿論一瞬の間にはひとつの事しか考えられないのだけれど、数秒もすると1つの単語から4つほどの連想が広がってしまう(例えば「理性」という言葉を思い浮かべると「光」「ナイフ」「氷河」「恩寵」「鍵盤」辺りの語が「理性」の観念の正n面体の周りにぼんやりと現れ、その面を侵そうとする)。先述の通り最近は色んなことを入力ないし出力してばかりいるので、頭の中がひどく喧しくてうまく言葉が出て来ない。ちかちか光る無数の言葉たちが百日紅の花のような形に咲いてはしぼむ。こうなると、これまでこの日記群の特徴だった<頭蓋をかち割って、脳の皺の深さを見せつけるような文体>は破綻してしまう。思えば、これまでこの文章を褒めてくれた友人達だれもが普段から脳内言語に親しんでいる観念過剰な懐疑屋だった。その手合いの人々にはきっと受け入れやすい言葉なのだろう。丁度酒飲みが酢酸の代謝に長けるように!

 

 頭痛がする。少々血が上り過ぎた。脳内言語の奔流、潮が引いていく。こんな表現をしたばかりにまた頭の中が喧しくなる。潮溜まりとの再会を喜んで貝を拾いたくなってしまう。LOVEずっきゅん。思考を断絶させてくれるような出会いが欲しい。

それが苦痛か快楽かは知らない。