トマトを投げたい

 トマトが投げたい。正確には誰かと投げつけ合いたい。普段の倍くらいの快晴の下、代々木公園の爽やかな芝生の上、相手は壮健な男子大学生30人程か、或いは顔の平たくてツリ目で髪の短い女の人、その人自体が権威にならないような不美人で、トマトの赤が映えるような白くて薄い肌をした人一人がいい。公園には他にも人が沢山いて、家族連れがキャッチボールをしていたり、脂身の多い女児が母親とシャボン玉を飛ばしていたり、早大生風の男女5人組がブルーグラスを演奏していたりする中で、我々は色の薄いシャツ姿で、お互いの顎や肩や膝、なるだけ骨格が露骨で頑丈な部位を目掛けて、熟れたトマト、出来れば地中海品種風の縦長で真っ赤なものを、可能な限り大きく腕を振って、投げる。受ける側は、なるべくそれを蒙らぬよう俊敏に身をよじり、掌中の果実を潰さないよう掴んでおいて、彼/彼女への復讐の機会を窺っていなければならない。替えの弾は縦積みになったポリエチレン製のコンテナにたんまり用意されていて、掴んでは投げ、投げては掴み、投げる。顔に命中しても、鼻血を拭ってはならない。躱した実が不運な子供を泣かすことを恐れてはいけない。祭儀者の頭の中にはただ、籠の中のトマトを投げ尽くす事、潰し尽くす事、そして殺意にも似た気魄でもって万人に対して当たる、そんな情熱だけがあればいい。

 どうしてこんな馬鹿げた発想を得たのか、それはいつも通り大学をさぼって暖かいロフトでごろごろしていた時の事。最近はこれまで苦しめられてきた生活への熱量の不足の原因が、その根本的な不足、例えば燃料なり酸素なり温度の不足というよりは、寧ろ排出の不良にあるという確信を持ちつつあった。そこで、人間の熱量、情念が過剰に生産され、そして過剰に消費される場について考えてみることにした、それが始まり。

 まず<過剰な生産>ということばから真っ先に連想されたのが、1929年の世界恐慌だった。前年の豊作や過剰な設備投資とそれに対する消費の不足が世界規模の混乱と後の全体主義の台頭をもたらしたとされる世界史上の一大事、そこから『怒りの葡萄』への一節が思い起こされた。米西海岸の農家がオレンジの過剰な収穫分に石油をふりかけて廃棄してしまう描写。積み上げられた果実が油濡れになる光景を想像し、もっと好ましい消費の仕方があったのではないかと考えたところで、投げてぶつけ合う、という発想が生まれた。ただオレンジだと固すぎるので、もっと他の軟らかく投げ合う事に適しており、それでいて柑橘と同じような太陽の申し子の顔をした果実を検討した結果、トマトに行き着いた。まあ、同様の祭りはスペインに既にあるのだけれど。

 

 「過剰に」「生産された」「トマトを」「投げて」「ぶつけ合う」。この一文にはそれぞれの文節に象徴的な意味がある。まず「過剰」。これは言うまでもない人間のいち特徴。「生産された」、これは労働(これまた人間的な行為だ!)の結果としての生産である、という点が重要。先に「コンテナにたんまり~」と表現したのも、投げられるトマトは参加者が手づから栽培、収穫したものを使うのが望ましいからだ。この祭りは、いわば低俗な新嘗祭

 投げるのがトマトなのは、先述のもの以外にも理由がある。そもそもトマトは新大陸原産で、所謂コロンブス交換によってもたらされた産物のひとつだ。そのコロンブス以降、スペインからは数々の探検者(と司祭)が新大陸へと航海していく訳だが、その情熱自体が頼もしく、またこの開拓への情熱は元々レコンキスタへ向けた宗教的情熱の転嫁ともされている。つまり、トマトは異質さと情熱と太陽の象徴で、その点で権威的存在でもある。トマトは、掌の上に収まる若くて熱い権威なのだ。そしてそれを「投げて」「ぶつけ合う」。投擲能力は霊長類の中ではかなり弱体なヒト属が唯一有する身体能力的な長所で、自らより遥かに強大な野獣を制することができた秘訣。そして全身運動たるその動作を以て、人間はその人間性をありありと発揮することになるのだ。「ぶつけ合う」のには、若い権威の放縦な破壊と暴力性の発揮とで浄化作用、排泄の快感を求めるという目的も勿論のこと、<ぶつけ合う>という行為がその祭儀への参加者を複数必要とし、そして彼らがお互い物理的に観測し得る範囲で、互いを目掛ける、そういった中心の無い求心構造を発生させる点に意味がある。もしこれが何か的を用意してそれに投げつける形式なら、きっと人間の狩猟者的な認知はその的自体を何か意味を持つもの、目的として捉えてしまう。そこで「ぶつけ合う」なのだ。云わばこれは内的体験の覚醒、自覚を促す儀式であり、また過剰な消費がそういった情熱を喚起する嚆矢となり得ることを身を以て学ぶ儀式でもある。ここまで書いてみると、冒頭で何となくその相手を男性複数名か女性一名に限ったのにも意味があるように思えてくる。ひょっとすると前者は戦争の模倣で、後者は性行為の模倣なのかもしれない。この辺りは掘り進めると止まらなくなりそうなのでこの辺で。

 

 とにかく、今はトマトを投げ合いたい。生活上の倦怠感に対抗することを考えた時、この儀式に快活さを取り戻す秘訣があるとの確信がある。とは言えここまで大々的にやる必要があるかというと話は別で、要は排泄の快感、情念の自覚さえ上手くいけばいいのだ。疲れるまで動き、目覚めるまで眠る、これが生活。

 という訳で試験勉強して白湯飲んで寝ます、今回思う事のあった方は、是非僕とトマトをぶつけ合いましょう。おやすみなさい。