ロロロ

 虚脱。倦怠。不在証明。今は一切気力というものがない。この言葉の不誠実さを見抜いてくれる人々の悩苦への誠実さを自分は尊ぶ。真に疲労しているなら机に向かう体力など有る筈なくましてや物書きなんてもっての外、という矛盾のことだ。しかし、嘔吐。これは言葉などではなく、吐瀉。私からは、単なる脳幹の不快刺激。貴方からは、単なる汚物。言葉などそもそも不快な刺激に過ぎない。このことは言語のもっとも原初的な形態への想像、自然界の簡単な観察から安易に導き出される。警戒や発情のための鳴声。発音器官を持つ有性の動物なら大体これは出来る。もう少し社会性のある動物になるとミツバチの8の字ダンスのように他の個体にとって有益な情報を運ぶ意思伝達も行われるが、それらはあくまで高度のものであって、やっぱり言語の原初的形態は不快刺激の表明のためのものとみて間違いなさそうである。

 ことばは、やっぱり雷のようなものだ。天がその暗雲中に生じた万感の歪みを、地が呼応して迎え入れる。そうして二者が相通じた瞬間の閃光!やはり、眩しいのか。眩しいなら滅多に落とすものではない。人の眼は、鷹の眼でないのだから。

 以上、昨晩の散歩中に、轢かれて血みどろに潰れたウシガエルの目玉のような模様がこちらを睨んでいたのを思い出しながら。

träumend

こんな夢を見た(夢十夜)。

 

 夢の中で夢を見ていた。どこかの病室。白い壁、白い寝台、白い布団。春めいた陽光が乳白色のカーテンを淡肌色に染めかける中、その華奢なからだは薄緑の入院衣に包まれて横たわっていた。顔立ちはよく思い出せない。ただ髪と肌の色素がやたら薄く、瞳は白みが掛かっていてあまり見えていなさそうだったのは覚えている。弱々しい色調に統一されている病室の中でさえ彼女は一等白く、戸棚の焦茶、カーテンの薄橙、冷蔵庫の白さえもが今にも彼女の肢体へなだれ込もうとしている。その光景は写真のようでほぼほぼ変化が無く、ただ視界の端のもやつきのようなものだけが時の流れの存在を示していた。思い出せるのはこれくらい。二回微分された映像のことだから、点を無理やり引き延ばしたようなぱっとしない像になってしまうのは仕方がない。ともかくそれは、崩壊への不安を孕んだ写真のような夢だった。

 

 病室の夢から醒め(それでも夢の中)、彼女の事を何とかしてあげたいと思った。あの病室から、彼女を今にも冒そうとしている現実から彼女を救い出すこと。自分にとってそれ以上に優先すべきことは無いように思われた。決意は当然のように為された。

 どうすれば夢の中の人物を救えるか。黴の生えた毛布に包まったまま俺は考えた。眠り方、夢の見方について、現代までの知的蓄積は十分な答えを出していない。ただ一つ確信できるのは、起床時に体験したことが夢見に影響を与えるということ。記憶は煮えかけの鍋底の泡のようなもので、ふとした拍子に意識の表層へと浮かび上がる。夢の中ではその浮上の仕方が覚醒時と異なるようで、そのため起床時には思い出せない遠い過去の記憶がある夜に夢の中でふと現れることもある。幼少時に遠方の美術館で眼にした無名画家の名前が壮年になってから夢の中で思い出されたりした事例があることを、俺はどこかで読んで知っていた。

 とにかく、体験である。実生活をより新鮮な体験で満たせば、それだけ豊かな夢が見られる筈だ。もし俺が一度起きてどこかの高原へ出向けば、彼女は草花を摘み集められるようになる。もし俺が一度起きてどこかの砂浜を散歩すれば、彼女は冷たな水に足を浸すことを覚える。あの病室、一枚絵の屏風のような景色から別のどこかへと彼女を連れ出すことが出来るのだ。その日から俺はなるだけ精力的に日々を過ごすことに決めた。

 その日一日を、鮮烈な体験で満たす。毎日少しずつ寄り道して、新しい風景に出会った。その時はなるべく彼女が隣に居るものとして、目にした全てを言葉で叙述することに努めた。近所の水仙の花がそろそろ散り始め、春本番の訪れを感じたこと。商店街の靴屋の店先で真新しい学生靴の革の匂いがして、高校時代を思い出したこと。四月には茨城の海岸の方までネモフィラの花を見に行くこと。そうやって日常のありとあらゆる色彩をことばの筆で絡め取り、心の中のパレットを満たしていく。そのうち次第に金銭と語彙が不足してくると、今度は本を読んでことばと表現を学ぶようになった。小説は勿論、思想書から詩集まで幅広く。岩波文庫で言えば赤、黄、緑、青から紫まで。そうしてことばと感性を磨くと、また目に映るものの見え方が変わって一層体験の深度が増す。彼女に初めて会って以降、日に日に俺は快活になっていった。

 

 しかし何度夢に落ちようと、彼女に会うのは依然として病室の中だった。いつまで経っても同じ部屋、同じカーテン、同じ入院着。窓の外の季節も一向に変わらない。それでも少しは変化があって、例えば彼女を眺める自分の視点はより彼女に近付いた。簡単に言えば、前は寝ている彼女の足元の方から部屋全体を眺めるふうだったのが、いつからかベッドの脇の丸椅子に腰掛け、横たわる彼女の傍らにいるようになった。より近くに居ることを許されたのが嬉しく、自分は彼女に話し掛けることを始めた。病室から出られないなりに、外の世界の事を彼女に伝えようとした。この間季節外れの雪が降ったこと。偶々入った古書店で好きな小説の初版本を見つけたこと。彼女はいつもそれを静かに聞いては寝息を立てている。その表情が愛おしく、お喋りは一等情熱的になる。ここでは俺はいつも早口で、饒舌だった。

 そうして毎日夢と現実とを行き来しているうちに、次第に寝て見る夢と起きて見る現実とが強固に縫い合わされていった。夢に在っては現を語り、現に在っては夢を語る。そんな本返し縫いの日常が三か月ほども続くと、眠ることも覚めることも大して違わないように思えてくる。つい先日乱歩を読んで(これもあの”体験”の一環だった)「夜の夢こそまこと」という言葉を覚えたが、今の自分は正にその通り、寝て見る夢の方が自身の過ごすべき世界だと確信している。思えば彼女に出会ってからというものの、俺は随分快活になった。それまで彩度を欠いていた景色が文字通り精彩を取り戻し始め、そしてその中で息づく俺は極度の健康にまで到達した。つまり、俺の棲む現実こそが一つの病室の夢であったのだ。

 この一大発見は自分に、彼女がいつか病から癒え目覚めてくれるであろうという確信を与えた。何故なら、愛情は相互作用を持つからである。俺は自分の快活を分け与えようと躍起になっており、それほど活気に満ちていた。彼女に出会ってから胸中に生じた小さな火種は、今や俺という内燃機関の駆動を伴う連続的爆発である。俺は太陽。盛んに燃え盛り、力の及ぶ限り感応を与え、彼女を目覚めさせる旭日光そのもの、俺がこうして活力の横溢状態にある限り、彼女もやがて内的な活力を生じて目覚めるに違いない。俺は益々意気盛んに彼女への奉仕を行うようになった。彼女もそれに呼応したのか、自分が病室を訪れるたび、額や首のあたりに発汗がみられるようになった。近い将来に彼女は意識を取り戻す、俺は確信した。

 

 

 その日の夢は自分が病院の玄関口にいるところから始まった。初めての状況にも拘わらず、直ぐにその病棟のどこかに彼女が居ると確信した。妙な胸騒ぎと共に階段を駆け上る。病室の番号は知らないが、最上階の角部屋が彼女の部屋だと不思議に確信した。よりによって一番遠い。走る。着く。扉を開く。窓側のベッドに駆け寄った。

 毛布が半分めくれている。彼女は居ない。その代わりに布団が彼女の横たわった形に焦げていた。布団をめくると、恐らく彼女のものだろう。膝から下が焼け残って、骨が見えている。皮下の脂の層だけが燃えて、皮と肉が離れている。焼き芋のようだった。ついでに同じように焼けた手首も一つ落ちていた。彼女が心臓の方から順に燃えていったのは明白だった。俄かに看護婦が飛んでくる。疚しさを覚えた俺は病室から逃げ出そうと窓から飛び降り、そこで目が覚めた。

 病室の夢から追い出されて、俺は激しく後悔した。激しく後悔して、そこでその後悔の原因が彼女を焼き殺したことにではなく、彼女と二度と会えないことにあると気付き、正常に後悔することのできない自分を憎んだ。暫くして、実は彼女と二度と会えないことすら悔やんではいない自分に気付き、そんな自分を恨んだ。やがてこの憎しみは無限に後退しはじめた。己は内部から炎に灼かれることを望んだ。愛情に相互作用があるのならば、彼女を炭人形と変えた火焔そのものが俺自身を滅ぼす筈だった。俺は罰の苦しみで以て己の罪を知ろうとし、苦しみの到来を待った。自瀆の言葉で胸中に刑架を組み、やがて来る火が己の心臓を焼き滅ぼし、脳蓋を燻してくれるのを待った。しかし、いつまで経っても己は己のままだった。ただ心地好い疲労感だけが胸を充たした。俺は絶望した。そこで初めて、炎はただ炎の為だけに燃えるのだと悟った。

 

そこで完全に目が覚めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

生活はつづく

 諸事情でボツになった自作ポップソングのタイトルを添えて……

 春休みに入ってから割と元気に暮らしている。起きて顔を洗い、白湯を飲み、軽い食事とコーヒーを胃に入れる。その後は本(最近は実用書が多い)を数種類同時進行で頭が痛くなるまで読み、頭痛に耐えられなくなったらピアノの練習に移る。37鍵(3オクターブ+ド)しかないMIDIキーボードを使っているので、両手で弾けるピアノ専用の曲はあまり無い。取り敢えずソロギターの楽譜をピアノ用に読み替えると音域的に丁度いいことに気付いたので、Chet Atkinsの曲のうち好きなものを練習曲にしている。同じ曲を別の楽器で弾く(ついでにメロディを歌う)と音程の感覚が鍛えられて楽しい。ピアノに飽きたらギター、ギターに飽きたらピアノ、と腕が疲れるまでやる。読書も音練も、苦痛が思考能力を奪ってくれるまで行うのがミソだ。

 そうやってしっかり頭を働かせた後は食事と休養・睡眠を十分に取る。食事は大抵一食につき二合の米の飯を、納豆や漬物などすぐ供せるものと一緒に平らげている。睡眠は予定が無い限り満足するまで取ることにしているが、よく疲労しよく食べていると自然に常識的な長さへと収まる。食べること寝ることに飽きればまた何か活動を始め、活動が苦痛に達すれば食べるか寝るかする。こういった満足と苦痛を規律とする生活を、自分は秘かに「個人的兵営」と名付けている。尤も、兵隊のように生命を超える価値はまだ背負っていないのだけれど。

 限られた、というか限った条件の中で自律的に行動し、その行動を通し何らかの限界に達することで自らの輪郭、存在の確かさを確かめる。苦痛は情の盛んな恋人に似て、頻りに交合を欲しては、冷たく重い肉感でこちらを拒絶する。性行為の苦しみは自分の輪郭を知る苦しみで、絶頂と同時に死ねない苦しみでもある。生活の苦しみもこれに相同。自分の限界を知る苦痛と、明日も生きなければならない苦痛。両者ともに快楽として読み換えることが可能だが、それには相当な気焔、気骨が要るのは疑いない。良くも悪くも、生活はつづく。そのことをどう評価するかが苦痛と快楽との線引きを決めるのだろう。これは評価なので当然尺度が要る。結局はやっぱり自恃の問題か。

 

 雑然と書き過ぎたことに反省。いつものことだが、文章を書くに当たって筋立てをしない、文脈を極力作らないのは不親切とは重々承知している。自分でも毎度読み返す度に各文が漫画のコマのように飛び飛びになっているように思える。これは言葉というものが時間とともに線状に伸びていくものなのに対して、自分の発想が面的ないし空間的に広がるせい。勿論一瞬の間にはひとつの事しか考えられないのだけれど、数秒もすると1つの単語から4つほどの連想が広がってしまう(例えば「理性」という言葉を思い浮かべると「光」「ナイフ」「氷河」「恩寵」「鍵盤」辺りの語が「理性」の観念の正n面体の周りにぼんやりと現れ、その面を侵そうとする)。先述の通り最近は色んなことを入力ないし出力してばかりいるので、頭の中がひどく喧しくてうまく言葉が出て来ない。ちかちか光る無数の言葉たちが百日紅の花のような形に咲いてはしぼむ。こうなると、これまでこの日記群の特徴だった<頭蓋をかち割って、脳の皺の深さを見せつけるような文体>は破綻してしまう。思えば、これまでこの文章を褒めてくれた友人達だれもが普段から脳内言語に親しんでいる観念過剰な懐疑屋だった。その手合いの人々にはきっと受け入れやすい言葉なのだろう。丁度酒飲みが酢酸の代謝に長けるように!

 

 頭痛がする。少々血が上り過ぎた。脳内言語の奔流、潮が引いていく。こんな表現をしたばかりにまた頭の中が喧しくなる。潮溜まりとの再会を喜んで貝を拾いたくなってしまう。LOVEずっきゅん。思考を断絶させてくれるような出会いが欲しい。

それが苦痛か快楽かは知らない。

 

 

  

 

20230119

コーヒーを飲んでいる時は、<自分はコーヒーを飲むために生まれてきた!>と思い、煙草を蒸かしている時は、<この一服の為に生きている!>と思い、ギターを弾いている時も、本を読んでいる時も、最近は大体全部そんな感じです。

トマトを投げたい

 トマトが投げたい。正確には誰かと投げつけ合いたい。普段の倍くらいの快晴の下、代々木公園の爽やかな芝生の上、相手は壮健な男子大学生30人程か、或いは顔の平たくてツリ目で髪の短い女の人、その人自体が権威にならないような不美人で、トマトの赤が映えるような白くて薄い肌をした人一人がいい。公園には他にも人が沢山いて、家族連れがキャッチボールをしていたり、脂身の多い女児が母親とシャボン玉を飛ばしていたり、早大生風の男女5人組がブルーグラスを演奏していたりする中で、我々は色の薄いシャツ姿で、お互いの顎や肩や膝、なるだけ骨格が露骨で頑丈な部位を目掛けて、熟れたトマト、出来れば地中海品種風の縦長で真っ赤なものを、可能な限り大きく腕を振って、投げる。受ける側は、なるべくそれを蒙らぬよう俊敏に身をよじり、掌中の果実を潰さないよう掴んでおいて、彼/彼女への復讐の機会を窺っていなければならない。替えの弾は縦積みになったポリエチレン製のコンテナにたんまり用意されていて、掴んでは投げ、投げては掴み、投げる。顔に命中しても、鼻血を拭ってはならない。躱した実が不運な子供を泣かすことを恐れてはいけない。祭儀者の頭の中にはただ、籠の中のトマトを投げ尽くす事、潰し尽くす事、そして殺意にも似た気魄でもって万人に対して当たる、そんな情熱だけがあればいい。

 どうしてこんな馬鹿げた発想を得たのか、それはいつも通り大学をさぼって暖かいロフトでごろごろしていた時の事。最近はこれまで苦しめられてきた生活への熱量の不足の原因が、その根本的な不足、例えば燃料なり酸素なり温度の不足というよりは、寧ろ排出の不良にあるという確信を持ちつつあった。そこで、人間の熱量、情念が過剰に生産され、そして過剰に消費される場について考えてみることにした、それが始まり。

 まず<過剰な生産>ということばから真っ先に連想されたのが、1929年の世界恐慌だった。前年の豊作や過剰な設備投資とそれに対する消費の不足が世界規模の混乱と後の全体主義の台頭をもたらしたとされる世界史上の一大事、そこから『怒りの葡萄』への一節が思い起こされた。米西海岸の農家がオレンジの過剰な収穫分に石油をふりかけて廃棄してしまう描写。積み上げられた果実が油濡れになる光景を想像し、もっと好ましい消費の仕方があったのではないかと考えたところで、投げてぶつけ合う、という発想が生まれた。ただオレンジだと固すぎるので、もっと他の軟らかく投げ合う事に適しており、それでいて柑橘と同じような太陽の申し子の顔をした果実を検討した結果、トマトに行き着いた。まあ、同様の祭りはスペインに既にあるのだけれど。

 

 「過剰に」「生産された」「トマトを」「投げて」「ぶつけ合う」。この一文にはそれぞれの文節に象徴的な意味がある。まず「過剰」。これは言うまでもない人間のいち特徴。「生産された」、これは労働(これまた人間的な行為だ!)の結果としての生産である、という点が重要。先に「コンテナにたんまり~」と表現したのも、投げられるトマトは参加者が手づから栽培、収穫したものを使うのが望ましいからだ。この祭りは、いわば低俗な新嘗祭

 投げるのがトマトなのは、先述のもの以外にも理由がある。そもそもトマトは新大陸原産で、所謂コロンブス交換によってもたらされた産物のひとつだ。そのコロンブス以降、スペインからは数々の探検者(と司祭)が新大陸へと航海していく訳だが、その情熱自体が頼もしく、またこの開拓への情熱は元々レコンキスタへ向けた宗教的情熱の転嫁ともされている。つまり、トマトは異質さと情熱と太陽の象徴で、その点で権威的存在でもある。トマトは、掌の上に収まる若くて熱い権威なのだ。そしてそれを「投げて」「ぶつけ合う」。投擲能力は霊長類の中ではかなり弱体なヒト属が唯一有する身体能力的な長所で、自らより遥かに強大な野獣を制することができた秘訣。そして全身運動たるその動作を以て、人間はその人間性をありありと発揮することになるのだ。「ぶつけ合う」のには、若い権威の放縦な破壊と暴力性の発揮とで浄化作用、排泄の快感を求めるという目的も勿論のこと、<ぶつけ合う>という行為がその祭儀への参加者を複数必要とし、そして彼らがお互い物理的に観測し得る範囲で、互いを目掛ける、そういった中心の無い求心構造を発生させる点に意味がある。もしこれが何か的を用意してそれに投げつける形式なら、きっと人間の狩猟者的な認知はその的自体を何か意味を持つもの、目的として捉えてしまう。そこで「ぶつけ合う」なのだ。云わばこれは内的体験の覚醒、自覚を促す儀式であり、また過剰な消費がそういった情熱を喚起する嚆矢となり得ることを身を以て学ぶ儀式でもある。ここまで書いてみると、冒頭で何となくその相手を男性複数名か女性一名に限ったのにも意味があるように思えてくる。ひょっとすると前者は戦争の模倣で、後者は性行為の模倣なのかもしれない。この辺りは掘り進めると止まらなくなりそうなのでこの辺で。

 

 とにかく、今はトマトを投げ合いたい。生活上の倦怠感に対抗することを考えた時、この儀式に快活さを取り戻す秘訣があるとの確信がある。とは言えここまで大々的にやる必要があるかというと話は別で、要は排泄の快感、情念の自覚さえ上手くいけばいいのだ。疲れるまで動き、目覚めるまで眠る、これが生活。

 という訳で試験勉強して白湯飲んで寝ます、今回思う事のあった方は、是非僕とトマトをぶつけ合いましょう。おやすみなさい。

 

禁じられた季節

 玉の緒よ、絶えろ! 願わくば、二度と貫くな!

 

 数珠繋ぎになった思考、思考とも呼べない強迫観念のロザリオが、じわじわと己の首を絞めようとしている。その一つ一つが、口にするのも忌まわしい。この苦悩は、人に話すに忍びない。美形の女のしかめ面が恐ろしいのに似て、己の文体、<頭をかち割って脳の皺の深さを直に見せしめる文体>は、素直に苦痛を出力してしまう。毒を呑んだ蛙のように、胃袋まで吐き出してしまう。饒舌は罪だ。軽蔑が罰だ。アア、また一つ珠が殖えた!

 

 こうも生きるのに不真面目でいると、かえって現実を直視する視力が生まれる。あたかも色付きの眼鏡が眩しさを抑えるように。脳が露出すると共に、己の松果体は再び視力を得た。今では労働や性愛、肉親や血液、死、そして沈黙のことばかり考える。どれも正気なら眩しくて直視するに堪えぬものだ。のっぴきならぬ実相の大問題だ。

 

 愛することは踏み躙ること、牛刀を振るうこと、よだかがかぶと虫喰らう哀しみ。腹を裂き首を落とし、そこで自らもまた生贄であること、死神の妾に過ぎないことを思う。死の余りの眩さに、生は只の影絵に過ぎないとさえ思ってしまう。こうなると一切はパロディ、娯楽は労働の、肉体は血液の、自己は両親の、言語は沈黙の、全てが実相を射抜いただけのシルエットに見えてくる。雪道の乱反射の中を往くような、盲になる外ない風景の最中に暮らすことになる。静脈の中に、春は二度と巡らない。万事休す。

 

 一日の中で、或いは一生の中で、最も長く影法師が伸びるのはいつ?

気付いた頃にはもう、太陽は海を連れて閨の中。

 

茶番

 本当に限界なので、脳内の人格とお茶をする事にした。電気ケトルでお湯を沸かし、急須代わりのガラスポットに茶葉のパックを放り込み、ペアの湯呑を一組用意する。この湯呑は昔、九十九島の土産屋で当時親密だった女性への真珠の耳飾りを買った際、店主の好意で貰った夫婦向けの品だ。今思えば、お店の方の<真珠を渡す相手と一緒に使え>というメッセージだったのかもしれない。ただ当時はお互い親族と同居していて、家でゆっくりお茶をする機会は無かった。あの時から一年以上経ち、今ではその女性とも同居人の親族とも別れて、一人の部屋でお茶を淹れている。なんだか少し申し訳ない気がした。

 

 ぼーっとしていたせいで、ケトルのお湯が90℃を超えてしまった。緑茶を淹れるには少し熱すぎる。個人的には70℃位で抽出するのが一番好きだ。お茶が酸化してしまう前にすっと飲めて、水色よく香りがよく立って、カフェインの効きも穏やかだ。ケトルの蓋を開けお湯が冷めるのを待つ。その間にお茶菓子を用意する。勿論、二つずつ。

 

今日のお茶請けは?

月餅と外郎です。

貴方は昔から月餅好きね。

固いものが好きなんですよ。小さい頃に納戸にあった母の育児本を読んで以降、歯や顎を養うのが癖になっていて、その、歯も顎骨もその周りの筋肉も、生活の実質ですから。(男、月餅を二人分開けて机に据える)

生活を大事にする人間は23時に起きないし、日付が変わってからお茶をしないものだと思うけど。この外郎は?好きなの?

月餅の隣に置いていたので買いました。普段は食べませんが、これも経験です。

なんだ、名古屋へのリビドーが残ってる訳じゃないのね。にしても、外郎、あの、拙者、親方と申すは……

嫌な事を言いますね、『外郎売』、一時期よく聞かされてましたよ、あの人、劇団員だったから。この湯呑を貰うときに買った真珠も、元はあの人が劇団の芝居で人魚の役をしてたから、良い趣向かと思って贈ることにしたんです。

生身の人間が苦手な癖に、劇団員なんか口説くから酷い別れ方をするのよ。貴方にお芝居の楽しさが判る筈は無いわ。肉体の躍動、現前、役者の身体を通した人格の表出。貴方、音楽にしたってライブハウスで聴く、というか観るのより、部屋でヘッドホンをして聴くのが好みでしょう? 身体を持たない、観念上の人間にしか恋をしてはいけないのよ。人を無暗に傷つけたくなければ。

本当はあの人を通してそういう人間的な、過剰なエネルギーの表出を愛せるようになりたかったんですがね、自分はあの頃、退屈任せに生き急ぐことしか考えていませんでした。辞世の句だって用意してましたからね。それはそれと、お芝居に関しては最近ようやく好きになれそうなんですよ、三島を読むようになりましたから。こうやって貴方に芝居がかった、ヒロイン的な”女”を演じる口調、まるでオカマの人達みたいな話し振りをしてもらっているのがその証左です。僕のような神経の細い男が一番嫌い、そしてそれ故に頼もしさを覚える話し方。

にしては貴方は女の表現が下手ね、三島より先に太宰を読むべきよ、太宰は男の女々しさと女の雄々しさを描くのが上手だから。尤も女々しさに掛けては貴方もなかなかのものだけど。

本当に嫌な事を言いますね、今どき”らしさ”なんて物言いなんてしたら縛り首ですよ、そういう偏見に人生を狂わされた不満を持つ人々は沢山居ますから。この頃は付き合いでよく10代の女の子に会いますが、大体自分の性別に不満を持ってますよ。彼女らは刺すこと切ることに戸惑いがありませんからね、自傷が出来る者は人の首を落とすことにも余念がありません。どうか刺されませんように。

飢饉とか戦争とか恐慌じゃなくて、性別。それくらいにしか人生を狂わされない生活は幸せなものよ。不安になりたい、不満を持ちたい人間の云う事なんて無視しておけばいいの。彼女らの中からはロベスピエールは出て来ないわ。ただ、若いから不満なだけ。きっと反り腰で、よく窄まった肛門を持つんでしょうね、ただの便秘よ。海綿の貪欲さで馬鹿な成人男性から精力を吸い上げて、それでその精力の扱いに困っている。畳一畳の幸福を愛でることも出来ない、彼女らこそお茶を淹れて生活を慈しむべきだわ。少なくともあの子らにありとあらゆる自傷の陶酔を教えた者達こそ断頭台送りになるべきよ。

最後のには同意します。しかし、淹れたお茶は飲まねばなりません。(男、温くなった茶を飲み干す) 貴方もいかがですか、冷めたお茶は飲めたものじゃありませんからね。

遠慮しておくわ。何分、身体が無いもので。お供え物とでも思って。

生憎こちら、信仰は持てない気質でして。もう遠いところに在るものを追うのは疲れたんですよ。消失点はいつだって視線の先にあります。しかし、地平線には手が届きません。無論、水平線にも。まあ、一切が手に届く範囲にあるよりはましですが。信仰も、はたまた恋愛も、無いよりましなものに意味を与える行為です。(男、女の分の茶を飲み干し、外郎をひとつ開ける) ういろう、言われて気付きましたが、嫌なダブルミーニングを持つものですね。こんなものをうっかり買った自分の潜在意識が怖い。食べて無くしてしまわなくては。

そうやって日常の些事に勝手に意味を見出して一喜一憂できる辺り、貴方は恋愛体質よ。しかもその対象が日常という点で、同性愛のそれ。手の届かない遥か彼方ではなく、ただ自分のすぐ近く、隣にあるものを愛でる価値の体系を持つ。ただなまじ距離が近い分、焦点を合わせるのに苦労するはず、具体的に言えば、放っておくと好意持つ対象との距離を際限なく縮めたがる傾向があるはず。

精神分析は頼んでいない筈ですが、うっかり潜在意識なんて言うものじゃありませんね。(男、外郎を一齧りする) しかし、よく分かりました。貴方のご指摘を鑑みて、この楽しい時間もこの辺りで。生活とは、中庸を行かねばならないものです。苦みと甘みの配分こそ、旨みの秘訣です、しかもその旨みは長続きはしません。(男、立ち上がって茶器を流しに運ぶ) 明日があるのでそろそろ寝ます、おやすみなさい。お蔭様で少し良い夢が見られそうです。(男、ベッドへ向かう)

 

……緑茶の飲み過ぎで眠れず、することなしに戯曲めいた日記を書こうと思ったがいざ書いてみるとどうも気恥ずかしい。生憎自分には役者の、というより脚本家の饒舌は合わないようだ。